モノクロの写真は1935年に撮影された糸満市糸満の中心部、標高約20メートルの丘・山巓毛(さんてぃんもう)から通称「鍛冶屋門小(かんじゃーじょーぐゎー)」と呼ぶ路地を見下ろしたところ。

1935年当時の「鍛冶屋門小」(カンジャージョーグヮー)。軒を連ねる家々のほとんどが赤瓦屋根で近海、南洋で財をなした漁村の豊かさを伝える。路地の突き当たりには船だまりがあるが、現在は埋め立てられている。糸満市糸満の町端地区に当たる

82年前とほぼ同じアングルで、山巓毛から見下ろした鍛冶屋門小(中央)。道沿いにあった赤瓦の家々は、ほぼ全てコンクリ建築に変わった。船だまりも車が行き交う道になり、沖に向かって埋め立てが進んだことが分かる。中央の海面は糸満漁港中地区。この日は糸満ハーレーが開かれていた=5月29日、糸満市糸満

1935年当時の「鍛冶屋門小」(カンジャージョーグヮー)。軒を連ねる家々のほとんどが赤瓦屋根で近海、南洋で財をなした漁村の豊かさを伝える。路地の突き当たりには船だまりがあるが、現在は埋め立てられている。糸満市糸満の町端地区に当たる 82年前とほぼ同じアングルで、山巓毛から見下ろした鍛冶屋門小(中央)。道沿いにあった赤瓦の家々は、ほぼ全てコンクリ建築に変わった。船だまりも車が行き交う道になり、沖に向かって埋め立てが進んだことが分かる。中央の海面は糸満漁港中地区。この日は糸満ハーレーが開かれていた=5月29日、糸満市糸満

 「門(じょー)」は好漁場の浅瀬に向かって、西に延びた埋め立て地。埋め立て地と埋め立て地の間は、くしの歯状に路地が9本あった。当時すでにかさ上げされていたこの路地も、かつては潮が満ちるとサバニが出入りできたという。

 また、小道に面した家々をまとめた呼び名でもあった。一番南の鍛冶屋門小は密集ぶりが際立ち、ほかが十数軒だったのに対して数十軒あったという。

 道沿いには赤瓦ぶきの家が目立つ。

 戦前写真には農村を捉えたカットもあるが、大半はかやぶき。糸満の誇る豊かな町並みの財源は、何だったのか。

 宮城夏枝さん(88)=同市糸満=は「大きな船主の家もあるが、たいていは海外から送金を受けて建った」と話す。糸満漁師はインドネシアやシンガポールなどの南方に出て、古里に稼ぎを送っていた。銀行で出し入れしたほか、手数料を惜しんで封書入りの現金を郵送する人もいたという。

 糸満は昔から同姓同名が多い。家族の元に間違いなくお金は届いたのか。 宮城さんは「送金元や金額で、どの家に渡すか見分けるおじいさんがいた」と語る。元郵便局員で足も耳も悪かったが、若い後輩を手ほどきしたという。金城光栄さん(88)=同=も「神様みたいな記憶力の人で、確か上原次郎と言った」と覚えている。(「1935沖縄」取材班・堀川幸太郎)