異人種間や国際結婚で偏見と差別に打ち勝つ家族は肌の色や異文化にひるまずに、自立を目指した。人間の向上心と尊厳こそが肯定されるのだと確信を抱いて。

名護の大木、ひんぷんがじまるは私の中高時代の通学時に常に励まされた風景だ(おいの与那覇定幸さん撮影)

 半面、中には偏見・差別が無職の理由だと、救済受理の対象になる人もいる。政府からの生活保護はあくまでも一時的援助であるが、それをキャリアにしてしまう人たちもいる。イチャンダムンを貰い続けると麻薬みたいに依存する。夜は遅くまで遊び朝寝する。そして援助側は、依存症支持者、甘やかし屋になる。

 戦争で島が平たんになった沖縄も這い上がってきた。戦争未亡人たちは、消沈していなかった。当時36歳の母もその一人で始終忙しく動いていた。芋が食べられるのを有り難く思い、貧乏を勉強しない、できない理由にはしなかった。その頃の私の記憶には無気力な人間は一人も頭に浮かばない。

 “Learned  helplessness”(学習性無気力)とは「挑戦しても報われないことが続いた結果、挑戦そのものをやめてしまう事」(ジーニアス英和辞典)。心身的虐待を受け続けてきた子どもやDV犠牲者が無気力状態になり、ドアが開いていても逃げようとしない、あの現象である。

 現在沖縄は翁長知事を先頭に、やっとEmpowerment(エンパワメントゥ=権利強化)されつつある。過去に拳銃やブルドーザーで土地や権利は奪われても、ウチナー魂は守られてきた。この意識は海外から明確に見える。海外ウチナンチュとして現在の沖縄の姿勢をいかに誇り高く思っているか、言うまでもない。

 米国の差別を書いていたつもりだが、日本政府の沖縄への差別の方が当然気になる。

 菅官房長官の「普天間封鎖には、翁長知事の協力が必要」うんぬんに焦点をおく話は、知事と県民を少し辺野古から遠ざける事を打算。すぐそれは“Diversion”(転換、脇へそらす)かフェイントだと発言の終わらぬ内に察知できた。

 普天間封鎖イコール辺野古オープンではない。日本国の安全保障は日本国全体の責任であり、沖縄は既に米軍基地負担過剰で、どの角度から見ても非人道的である。

 沖縄が真っ向から問題提起し、堂々とした姿勢がよく伝わってくる。海外のウチナンチュたちだけでなく少数だが米一般人にでもそれは把握できる。沖縄はもう日本政府の傀儡(かいらい)政権ではない。10歳の孫に島の面積と基地の話をすると「それは絶対に不公平だ」と即答。日本政府の沖縄への差別といびりは、卑劣で受け身的攻撃性の臆病なやり方だ。ホワイトハウスと国連でも訴え続けるべき人種差別である。リーダーにとって道は厳しい。今からが本番なのだ。

 110年前に最初にニューヨークに定住した県系の照屋ゼンシロー氏が、リーダーを大木に例えた。高い木のてっぺんはよく揺れる。暴風雨や太陽にも真っ先に当たるが、根本が頑丈だとその大木は生存する。沖縄の今回の強い民意は“連帯感がいかに根強いか”を示し、凛としたリーダー像は新鮮に感じる。 

 リーダーとしての人徳は周囲から認められる受け身的なものだが、自由は与えられるものではない。自由は積極的に動いてこそ獲得し得るものである。(てい子与那覇トゥーシー通信員)