米軍の沖縄上陸は必至の情勢となっていた。1945年3月上旬、第32軍の牛島満司令官は、大本営に伊江島飛行場と北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)の破壊を具申した。大本営は、伊江島飛行場の破壊を許可した。

 当時、越来村から伊江島に動員されていた仲村春孝さん(87)は耳を疑った。「造れと言われて来たのに、途中から『壊せ』と言う。ばかばかしいと思った」。仲村さんは腑(ふ)に落ちないまま、つるはしで飛行場を壊し始めた。

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 42年のミッドウェー海戦で惨敗を喫した日本軍は、その後も中部太平洋戦線で敗退を重ねた。43年に「絶対国防圏」を設定、マリアナ諸島の後方支援基地として南西諸島に多数の飛行場を建設する計画を実施に移した。

 44年7月のサイパン陥落で絶対国防圏が崩壊すると、陸海軍を結集し、航空決戦を行う「捷号(しょうごう)作戦」を策定。沖縄守備軍の第32軍は飛行場建設と堅固な陣地を構築する「全島要塞(ようさい)化」を急いだ。

 43年から始まった沖縄の飛行場建設は44年から本格化し、最終的に15の飛行場が造られる。

 飛行場建設のための部隊が次々と沖縄に移駐すると、それまで比較的平穏だった沖縄が、にわかに戦時色に染まっていった。

 徴用令が乱発され、住民が各地の飛行場建設に動員された。「現地自活に徹し、一木一草といえども活用すべし」(牛島司令官)という方針の下、根こそぎ動員の人海戦術で突貫工事が進められた。

 住民はスコップ、つるはしなど粗末な道具で炎天下の過酷な労働を強いられた。その実態を辺野古誌は、こう記している。「伊江島での作業は厳しく、夜が明けぬうちから日が暮れるまで、もっこを担ぎ土石を運搬する重労働で、男子は午後11時まで長時間労働を強制された」

 動員は、婦人や老人、学童にも及んだ。学校は兵舎として接収され、もはや学業どころではない。読谷飛行場建設に動員された屋宜光徳さん(82)は、国民学校(小学校)6年生だった。「直径1メートルはある石のローラーを引っ張って滑走路をならす作業をした。3~4人で引いたが、かなり重かった」

 伊江島飛行場建設には、国頭郡を中心に動員が割り当てられた。史料によると、44年5月から8月末までの4カ月間で動員された人数は3万7840人。1人10日間働いたとすれば、延べ人数は37万8400人。国頭郡だけで人口の約32%に当たる3万4612人が動員されたという。(林博史『沖縄戦と民衆』)

 伊江島に動員された仲村さんはその後、別の現場で作業中の住民が日本兵に激しい暴行を受けているのを目にした。「後ろにいた兵隊に敬礼をしなかったという理由で殴られ、足蹴(あしげ)にされた」

 飛行場や陣地構築に駆り出された住民を、日本軍は防諜(ぼうちょう)対策の対象にもしていた。「防諜に厳に注意すべし」という牛島司令官の訓示は、軍が機密保持に常時神経を使っていたことを物語る。

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 45年4月1日、本島に上陸した米軍は、その日のうちに北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)を占領した。すでに日本軍の航空戦力は消耗し、飛行場はほとんど使われることなく米軍の手に落ちたのである。

 米軍は、日本軍が破壊した伊江島飛行場を2日で修復し、沖縄攻略作戦や本土空襲の出撃基地として使った。

 全島要塞化は、県民に計り知れない人的・物的損失をもたらした。住民の土地は飛行場用地として接収された。戦後国有地となった旧軍飛行場用地問題は、全面的解決には至っていない。

 県民が強いられた犠牲と負担は、70年たった今も続いている。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は9月までの間、実際の経過に即しながら随時掲載します。