大田昌秀さんは92歳の誕生日に、教え子たちやご家族に見守られて他界した。ハッピー・バースデー・トゥ・ユーのお祝いの歌を聞きながら、まさに眠るように息を引き取られたそうだ。大田さんのことだ、沖縄のあるべき未来に確固たる希望をもっておられたので、それと現実の落差におそらく大いに悔いを残しながら去っていかれたのではないかと思う。
 僕が最後にお会いした時も沖縄が置かれている現実に怒りを隠していなかった。その内奥からみなぎる熱情の源は、鉄血勤皇隊員としての沖縄戦での極限の体験にあると常々話しておられた。戦争をしてはいけない。大田さんの戦後を貫く固い信念だ。

大田昌秀さんをしのび、多くの人が参列した告別式=15日午後、浦添市・いなんせ会館

 「大田さん、何を召し上がりたいですか?」。去年の5月22日、那覇で久しぶりにお会いして夕食にお誘いして返ってきた答は「ステーキ!」。大田さんは200グラムのステーキを平らげた。亡くなられた3日前に入院先の病室にお手紙をお届けしたが、もはや開封して文字を追う体力はなく、僕から手紙が来たと告げられると、「ああ、彼とはよく会ったんだ」と口にされたと、その場に立ち会っていた教え子の玉城眞幸さんからうかがった。

 大田昌秀さんに引き合わせていただいたのは、故・筑紫哲也さんだ。大田さんが知事時代に上京した際の会食に同席させていただいたのが最初だった。当時の琉球放送・東京支社長、故・大城光恵さんもよく同席されていた。取材なのか単なる宴会なのかよくわからない楽しい懇談の場だった。

 ウイスキー、とりわけシーヴァス・リーガルをこよなく愛した大田さんは、飲めば飲むほど弁舌さわやかに、話題は時空を飛び越えて世界に広がって、沖縄出身のイリノイ大学名誉教授・平恒次氏らウチナンチューの国際舞台での活躍ぶりや、同じく沖縄出身でアメリカで成功をおさめた実業家・平良新助の「ヒヤミカチ節」の歌詞のことやら、ついには沖縄独立論まで話題はとどまるところを知らないのだった。

 東京杉並区の高円寺に最初にできた沖縄料理店「きよ香」にも出入りして、店主の高橋淳子さん(故人)とも親交があった。びっくりと言えば、たまたま僕が2000年に北朝鮮を取材していた時、ピョンヤンのホテルでばったり大田さんに出くわしたことがあった。朝鮮半島の平和団体の招きで訪朝していてレセプションがそのホテルで行われていたようだった。

 僕の記憶はほとんど飛んでしまっていたのだが、当時の秘書の桑高英彦さんによると、1994年ころ、当時僕が赴任していたモスクワでも県知事訪問団の一行として参加されていた大田さんと僕は会っていたというのだ。そうだったなあ、とだんだん思い出してくる始末だ。

 とにかく大田さんは行動範囲が広いのだ。そして人をしっかりと鋭く見極める能力があった。「あれはニセモノだよ」。沖縄にすり寄ってくる自称・学者、文化人の動向を静かに見ていた大田さんは、笑みを浮かべながら厳しいことを言っていた。その大田さんはもういない。ぽっかりと大きな穴があいたようだ。

 6月15日、午前7時46分。希代の悪法「共謀罪」法が可決・成立した。反対する市民らが国会周辺で怒りの声を上げるのを取材しながら、僕は何度も時計に目をやっていた。その日の午後、浦添市で大田さんの告別式が行われることになっていたからだ。何としても参列して自分なりのお別れの思いを伝えたかった。取材後、飛行機に飛び乗り、どうにか告別式に間に合った。会場には大田さんとゆかりのあった人々に加え、大田さんを慕う大勢の市民や県民の方々が訪れ、死を悼んでいた。仕事場から慌てて抜けてきたような普段着の人もいた。海勢頭豊さんらの生演奏が奏でられていた。遺影の大田さんは笑っていた。けれども僕がお会いした大田さんは、初めはにこやかだったが、基本的には怒っていた。

 これだけは言っておかねばならない。大田さんは95年のいわゆる女性に対する暴行事件の際、反米軍基地感情が沸点に達した時、普天間飛行場返還の約束をとりつけた主人公である。それが今現在の辺野古問題の直接の引き金である。当時の首相、橋本龍太郎氏は焦っていた。それと同時に、当時の沖縄県民の怒りに一定の理解を持っていた。何しろむごい事件であり、米軍側は日米地位協定を盾に米兵の身柄引き渡しさえ拒んでいたのだから。今の政権とは雲泥の差がある。

 橋本首相は当時の駐日大使ウォルター・モンデール氏に頼み込み、普天間飛行場の返還を迫った。モンデール氏は旧知の国防長官・ウィリアム・ペリー氏に電話を入れてOKを取り付けた。「普天間は返そう。それでOKだ」と。それがいつのまにか代替基地建設の話にすり替えられていく。県内に代替施設を建設する条件などなかったはずだ。それを仕向けた人間たちがいた。誰か?

 悲しいことに、それはアメリカ側の要求というより、当時の防衛庁トップと日本政府内の安保体制に利害関係をもつ強硬派が「沖縄に海兵隊はとどまってほしい」と、無条件返還話を捻(ね)じ曲げたのだ。海兵隊にとっては願ったりかなったりの提案だった。世界最大規模の米軍基地・嘉手納に統合されずに、自前の基地を、ほとんどまるごと日本政府のお金で自然の美しい場所につくってもらえる、と。こんなおいしい話はない。

 大田さんの告別式で涙を流しながら友人代表の弔辞を述べた比嘉幹郎さん(元副知事)に、式会場で大田さんとの思い出をうかがった。「大田さんが名護の英語学校の先生だったころ、よくお酒を一緒に飲みに行ったんです。当時のジュークボックスで1曲1回25セントだったかで聴けたんですが、大田さんは10枚くらいクオーター(25セント銅貨)を入れて何度も何度も聞いていた曲が、でいご娘の『艦砲ぬ喰ぇー残さー』だったんです」。歌詞のサビの部分はこうだ。

 うんじゅん 我んにん 汝(いや)ん 我んにん(あなた方も、私も、君も 僕も)
 艦砲ぬ喰ぇー残(ぬく)さー(艦砲射撃の食い残し)

 沖縄戦の後の自分たちは、「鉄の暴風」と言われた米軍の激しい艦砲射撃の生き残りに過ぎない。死んでいった者たちのことを決して忘れるな、という深い含意がある。大田さんだからこそ、敵も味方も国籍も年齢も氏名の確認さえも超えて、あの「平和の礎」を作りえたのであり、沖縄戦の歴史文書をきちんと後世の人々に残すために(ああ、今の公文書を片っ端から隠滅・廃棄してしまう役人どもとは何という志の違いだろうか!)県公文書館を設立した。

 大田さん。大田さんの怒りをわずかなりとも心に引き継ぎ、僕は僕の持ち場で沖縄と向き合っていきますからね。どうぞ、やすらかにお休みください。合掌。(テレビ報道記者・キャスター)