それまでも決して良好とはいえなかった軍・官・民の関係が、10・10空襲のあと、いっそうとげとげしくなった。

 第32軍司令部の軍首脳は、幹部宿舎の提供や慰安所設置などの要求に非協力的だった泉守紀知事に不信感を抱いていた。泉知事は、軍政が敷かれているかのような、軍の行政への介入を快く思っていなかった。

 県行政は、知事の現場指揮のまずさもあって空襲被害から立ち直れずマヒ状態に陥っていた。沖縄での仕事に嫌気がさしたのか、泉知事は1944年12月に上京すると、知人に転勤を働き掛け、年が明けても帰ってこなかった。

 内務省は、不協和音の絶えない沖縄の現状を打開するため、泉知事を香川県知事に転出させ、大阪府内政部長の島田叡(あきら)を泉知事の後任に発令した。

 米軍上陸必至の沖縄に赴任するということは、死地に赴くようなものである。戦時下とはいえ、あまりにも残酷な人事であった。断ろうと思えば断れたはずだが、島田は断らなかった。

 「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか」

 留守宅に妻と2人の女の子を残し、身一つで沖縄に着任したのは45年1月31日のことである。

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 軍隊の目的はあくまでも戦闘であって、「百事皆戦闘をもって基準とすべし」(作戦要務令)というのが日本軍の考え方だった。

 だとすれば戦場において非戦闘員を守るのは誰なのか。

 軍民混在の戦場で、目を覆いたくなるような悲劇が続発したのは、日本側に住民保護の視点が決定的に欠けていたからではないのか。

 なぜ沖縄戦はこれほど多くの非戦闘員の犠牲をだしたのだろうか。確かなことは、沖縄が本土決戦の時間を稼ぐための「捨て石」と位置付けられていたこと、捕虜になることを禁じられ、「悠久の大義」に生きるよう玉砕を求められていたこと、である。

 島田は着任早々、平常の行政事務を停止し、戦時行政に乗り出す。住民を疎開させ、疎開先で飢えさせないように保護することが戦時行政の重要な課題だった。

 島田の下で疎開業務を進めた浦崎純は、戦火を避け昼となく夜となく北へ北へと移動する老人、子ども、婦女の長い列を見たときの印象を戦後、こうつづっている。

 「もの悲しい情景だった。沖縄一千年史のどの頁にも、これほどもの悲しい情景はみあたらなかっただろう」(「消えた沖縄県」)。

 疎開先の北部でマラリアや飢えのため亡くなった人は少なくない。本島南部に追い詰められた避難民だけでなく、北部に疎開した人々にも苛烈な現実が待ち構えていたのである。

 本島北部への疎開者の数は、およそ15万人と推計されている。島田と荒井退造警察部長が音頭をとって疎開業務を進めた結果、多くの人々が救われたこともまた、疑う余地がない。

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 首里の壕に陣地を構えていた第32軍司令部が南部への撤退を準備していたころ、島田は、軍首脳部に対し、「南部に撤退すれば住民が巻き込まれる」との考えを述べ、首里での抗戦継続を申し入れたといわれる。

 その話が事実かどうかはっきりしないが、さもありなん、と思わせるものを島田知事は持っていた。南部の壕を転々としながら島田が見せた人間味あふれる行動と言葉は、今も多くの人たちによって敬慕の情を込めて語り継がれている。

 県警察部職員だった山里和枝さんは、糸満市の轟の壕で「敵は何もしないから手を挙げて出るんだぞ」と知事に声を掛けられた。自分の死の近いことを意識しながら、職場の部下に、生きるんだよ、と軽く肩に手を添えて呼び掛けたのだという。

 6月14日、県庁の解散を宣言して轟の壕を出た島田と荒井のその後の消息ははっきりしない。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は9月までの間、実際の経過に即しながら随時掲載します。