2017年(平成29年) 12月12日

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「先生、この子お願い」託された少女は… 沖縄米軍機墜落、惨状の教室を絵に

 米軍施政下の1959年、うるま市石川の宮森小学校や周辺住宅地に米軍戦闘機が墜落した事故から58年となった30日、同校で追悼慰霊祭があり、遺族や児童らが犠牲者18人の冥福と平和を祈った。

墜落当時を思い起こして伊波則雄さんが2009年に描いた「燃える教室」=NPO法人石川・宮森630会提供

時折涙をぬぐいながら、墜落事故当時の様子を語る伊波則雄さん=30日午前11時すぎ、うるま市立宮森小学校

涙を流しながら「仲よし地蔵」に手を合わせる慰霊祭参列者=30日午前時半、うるま市立宮森小学校(渡辺奈々撮影)

1959年6月30日に沖縄で米軍戦闘機が墜落。宮森小学校を巻き込んで児童や住民18人が死亡、210人が負傷した

墜落当時を思い起こして伊波則雄さんが2009年に描いた「燃える教室」=NPO法人石川・宮森630会提供 時折涙をぬぐいながら、墜落事故当時の様子を語る伊波則雄さん=30日午前11時すぎ、うるま市立宮森小学校 涙を流しながら「仲よし地蔵」に手を合わせる慰霊祭参列者=30日午前時半、うるま市立宮森小学校(渡辺奈々撮影) 1959年6月30日に沖縄で米軍戦闘機が墜落。宮森小学校を巻き込んで児童や住民18人が死亡、210人が負傷した

 墜落時に巡回教師として石川・恩納の小中高校で授業をしていた伊波則雄さん(79)=読谷村。当時を知る遺族や関係者が亡くなる中、今では当時の証言ができる数少ない元教員となった。慰霊祭で初めて登壇し、涙を流しながら事故の悲惨さを語った。

 石川中学校での授業を終えて石川連合区の教育事務所に戻り、席に着こうとした瞬間だった。爆発音が聞こえ、窓から外を見ると、米軍機が約1キロ半先の宮森小の方に突っ込んでいき、黒煙が立ち上った。

 窓から飛び出して宮森小に向かうと、校門手前で保護者から「先生、この子をお願い」と全身にやけどを負った少女を託された。

 「少女の髪は焼け縮れ、服は燃えて一糸まとわぬ姿だった。背中には直径5センチほどの洋服の切れ端がくっついていた」。今でも当時の光景が目に焼き付いて離れない。その後、米兵が少女を軍病院に運んでいった。後で亡くなったと聞き、当時2年生の喜屋武玲子さんだと知った。

 墜落から50年たった2009年。当時の宮森小校長で喜屋武さんと同学年だった平良嘉男さんに「墜落時の様子を絵にしてほしい」と頼まれた。校舎が炎上している写真は米軍にフィルムを引き抜かれ、ほとんど残っていなかったからだ。

 絵が得意だった伊波さんは当時を思い起こし、激しく燃える教室とやけどを負った玲子さんと手をつなぐ自身を表現した「燃える教室」を描いた。「恐ろしさを忘れてはいけない、二度と起こしてはいけない」とのメッセージを込めた。

 伊波さんは「男性の元教員で語れるのはもう私しか残っていない。当時を知る教員の代表として、後世に語り継いでいきたい」と力を込めた。(中部報道部・大城志織)

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