終戦直後、町工場から身を興し、沖縄県内有数の企業グループにまで成長させた呉屋秀信氏が4日、亡くなった。戦争で全てを失った住民のために18歳で農機具を作る鍛冶屋を始めた。「地域の求めに応え、地域と共に歩む」との創業の理念は、幅広く事業展開する金秀グループに受け継がれている。県工業連合会長、県経営者協会長も務め、県産品優先使用運動の実施など功績も多い。具志堅宗精氏、國場幸太郎氏、宮城仁四郎氏、大城鎌吉氏ら沖縄経済の“四天王”に次ぐ世代の代表格として戦後復興を担った。県経済の発展に尽力した89年だった。

金秀グループ創業70周年感謝の集いであいさつする呉屋秀信氏(右)=5月25日、那覇市のANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー

 ◆「金秀」率い幅広く事業

 創業から時代の求めに応じて事業を進めていった。戦後間もない1947年に鉄工所を設立。農機具や生活必需品から、住民生活が安定してくると、精米機や脱穀機などの工業製品を製造する。

 「島内産業の振興で、県経済の発展につなげる」との信念を持ち、民間工事に重点を置いた事業を展開。シャッター販売、鋼材輸入、アルミ製造へと業容を拡大し、建設業界での地位を確立した。

 83年には小売業に参入し、ホテルやゴルフ場経営も手掛ける。時流を捉え、売り上げを伸ばす一方、県内企業でもいち早く連結決算を取り入れ、内部統制も強化。「各社の責任を明確にし、共に喜びを分かち合えるグループにしたい」と拡大するグループの一体化にも努めた。

 ◆時代の先を読む経営手腕

 時代の先を読む経営手腕で、金秀グループを連結売上高1千億円を超える企業群に成長させた。5月25日に那覇市内のホテルであった金秀グループの創業70周年を祝う式典で呉屋氏は「皆さまのおかげで本日を迎えられたことを心の底から感謝します」と述べ、自らの人生と重なるグループの発展を喜んだ。

 復帰間もない73年に県工業連合会長に就任。県外企業との競争が激化する中、業界一丸となって、県産品優先使用の基本方針の制定などに尽力した。

 県経営者協会長の88年には、福地ダムでの米軍訓練中止を要請。「県民の再三の反対を押し切っての強行は県民蔑視。保革を超えて取り組む」と米軍の理不尽に立ち向い、即時中止につなげた。

 金秀児童育成財団(現・金秀青少年育成財団)を設立したほか、出身地の西原中学には毎年寄付を続けており、青少年育成にも注力してきた。