1935年の沖縄写真群には、那覇-糸満の約9キロを走った「軌道馬車」も写っていた。那覇側からみて道の左に敷かれたレールの上を走る交通機関だ。豊見城市渡橋名の高良健二さん(87)は「大人のジョギング、子どものかけっこ程度の速さだった」と思い出す。

糸満と那覇を結んだ軌道馬車。写真に収めた大阪朝日新聞の連載「海洋ニッポン」第5回では、行商の女性「カミアチネー(糸満では「カミアキネー」)たちが那覇に向かうとき「三里(約12キロ)の磯浜をひた走りに、あるいは趣味ゆたかな軌道馬車にうちのって、芋畑をゆられながらやってくるのだ」と描かれている(写真は朝日新聞提供)

かつて「軌道馬車」が往来していた潮平交差点付近=2017年5月29日、糸満市・国道331号(画像の一部を処理しています)

糸満と那覇を結んだ軌道馬車。写真に収めた大阪朝日新聞の連載「海洋ニッポン」第5回では、行商の女性「カミアチネー(糸満では「カミアキネー」)たちが那覇に向かうとき「三里(約12キロ)の磯浜をひた走りに、あるいは趣味ゆたかな軌道馬車にうちのって、芋畑をゆられながらやってくるのだ」と描かれている(写真は朝日新聞提供) かつて「軌道馬車」が往来していた潮平交差点付近=2017年5月29日、糸満市・国道331号(画像の一部を処理しています)

 道沿いで友だちと馬やヤギの餌になる草を刈っている時に見かけると、皆で追いかけた。「追いつくと、代わりばんこで後ろの手すりにぶらさがる。運転手に見つからないようにする遊びだった」

 「糸満市史資料編12民俗資料」によると、軌道馬車を運行した糸満馬車軌道株式会社は18年設立。定員14人で運行したが、バスや鉄道の登場に押され、39年に営業廃止となった。

 代わりを担ったバスは37、38年ごろ、ガソリンから木炭を燃料に走るタイプに替わり始めた(「沖縄事始め・世相史事典」)。

 子どもの遊びの対象になる点は、軌道馬車と同じ。玉城亀助さん(86)=糸満市糸満=は「炭で走る車なんて、煙までハイカラな匂いに思えて、追いかけた」と笑う。高良さんも「後ろについていた炭を炊くための手回しハンドルを回して遊んだ」と話す。

 木炭バスはエンジン始動の時にしかガソリンを使えなかったという(同書)。戦時体制下でガソリンを軍に優先して回すためだった。子どもたちの乗り物との「追いかけっこ遊び」の変遷は、交通機関の近代化だけでなく、沖縄戦が近づく世情も映していた。 (「1935沖縄」取材班・堀川幸太郎)

写真展「よみがえる古里~1935年の沖縄」

戦火に包まれる前の沖縄が、150枚の秘蔵写真でよみがえります。 7月21日(金)~30日(日)まで、タイムスギャラリー(那覇市久茂地2-2-2、タイムスビル2階)で開催。入場無料です。