さまざまな理由で渡米し定住する外国人は多い。権利と自由を享受し移住を謳歌(おうか)する人たち。その一方、米国人の社会や政府を非難しながらずっと住む者たち。幸せか否かは別として各大陸出身で英語を第2言語とする人たちは私と同様ここでは「フォーリナー」、つまりガイジンである。偏見と差別は外人同士でも起こる。このるつぼはミックスサラダとも形容される。

アメリカンドリームを実現したイーナさん(右)と息子のユージン君=ニュージャージー州の自宅で

 そんな中、私はウクライナから来たイーナのような人間に会ったことがない。

 1998年、当時30歳だったイーナはウクライナから夫と幼少の息子の3人で米国の地を踏んだ。故郷ではキエフ首都大学で公立図書館員として働き夫は医者だった。2人ともソビエト支配下で生まれ育った。高校での週2回の軍隊教育は、AK47ライフル銃の射撃と整備。ウクライナ語とロシア語を両立させた生活だった。夫婦は息子の将来のことも考え渡米した。

 渡米はしたものの夫婦は英語の「Yes」「No」、家電の「On」「Off」も知らなかった。捨てられた家具を集め生活を始めた。夫は病院の検査室で働き、イーナは他人の家を掃除し、ドーナツ店で働いて貯金し、2年後、ローンで家を買った。息子が小学校へ進むとともに教科書を学び宿題も一緒に続けた。

 2000年、32歳のイーナは新聞の求職欄が読めるようになった。初めは公共図書館の事務員に採用。早速コンピューターの特訓も受け、まもなく公立図書館員に昇進した。

 私は08年、同じ武道センターに通うニーナと知り合い、語り合い、親友になった。

 現在47歳になったキャリア・ウーマンのイーナはグリーンの瞳を輝かせながら語る。「移住後、生きるためには忍従、スキル、知恵を必要とした。多くのウクライナ人は境遇に耐えきれず帰国した。私の成功はすべて働き学習した結果だ。でも、あのまま住んでいたらどんなに働き、勉強しても自分の家や自由、権利は決して得られていない」

 ソビエトから独立したウクライナは14年のロシアとの交戦で民間・軍人合わせて5千人の死者を出し、その後も死者は増え続けている。イーナの家族が帰省できるのは、いつの日だろう。息子のユージン君が故郷にいたらライフルを手に戦っていただろう。

 今彼はアルバイトで買った車を運転し、大学生活を有意義に過ごしている。

 イーナは電話がまだ通じる故郷へ連絡をとり、母や親戚の安否を気づかっている。

 ウクライナへのロシア侵入と琉球処分が何となく重なってくる。

 自由の女神の足元に刻まれた詩がある。「私が受け入れるのは貧乏人、自由を切望する者、嵐にもまれ疲れ果てた者、他国の海岸で拒否された者。私は黄金の扉の前で、たいまつのあかりを持って待ち続ける」

 何と寛大だろう。その寛大さを侮ったり悪用してはいけない。1世のウチナーカメ~カメ~おばあたちと島のことが頭に浮かぶ。

 小さい島々に自由の女神はないが、ちむぐくるがある。歴史上どの港もオープンだった。那覇、泊、ドイツの難破船を助けた宮古島…。海外に移民した同郷人のために大会をするのは、世界でウチナーだけである。われわれ海外ウチナンチュたちはそれを心の底から重んじないといけない。(てい子与那覇トゥーシー通信員)