沖縄戦時の前田高地を舞台にした米映画「ハクソー・リッジ」。日米両軍の激しい戦闘シーンの裏で、スクリーンには映し出されない多くの民間人もまた、戦渦を逃げ惑い、命を落とした。浦添村(当時)前田で生まれ育ち、当時小学3年生だった富本祐二さん(82)も沖縄戦に巻き込まれた一人だ。(浦添西原担当・伊禮由紀子)

沖縄戦当時、日米両軍の激戦が繰り広げられた前田高地の絶壁(うらおそい歴史ガイド友の会提供)

「海は米艦船で埋まり、陸は焼け野原で真っ黒だった」と話す富本祐二さん=浦添市内

沖縄戦当時、日米両軍の激戦が繰り広げられた前田高地の絶壁(うらおそい歴史ガイド友の会提供) 「海は米艦船で埋まり、陸は焼け野原で真っ黒だった」と話す富本祐二さん=浦添市内

 「辺り一面、真っ黒だった」。今では、木々が生い茂り、時折小鳥のさえずりが聞こえる前田高地の一帯。72年前の同じ場所で、富本さんは緑一つない焼け野原を目にし、鳴りやまない爆撃音におびえていた。

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸し、富本さんら家族10人は首里へ逃げた。逃げる途中も砲弾が飛び交い、そのたびに身を隠し、死を覚悟した。

 「どうせ死ぬなら、生まれ島で死のう」という父の呼び掛けで、前田に引き返すことに。道中は首里へ逃げる人たちであふれていた。着物に火がついたまま逃げ惑う女性もいた。

 前田に戻った富本さん一家は、先祖の墓近くの壕に避難した。常に膝を抱えて座らなければならないほど狭かった。乾燥させた芋を食べ、飢えをしのいだ。

 5月下旬ごろ、水くみに外へ出た父が米兵に胸を撃たれた。まるでホースから水が出るように父の胸から血が噴き出し、バケツを持つ手はぷるぷると震えていた。「ほら、水だよ」。瀕死(ひんし)の状態で水を運んだ父は、そう言って亡くなった。

 一家は数時間後に米軍の捕虜になり、壕を出ると焼け野原に無数の死体があった。「私たちはいつ焼かれるのか」とつぶやいた母。誰も、生きて帰れるなんて思っていなかった。

 民間人を巻き込んだ日米両軍の死闘で前田地域に残ったのは、地面を掘っても掘っても出てくる銃弾や砲弾の残骸の山だった。戦後、皮肉にも朝鮮戦争の特需で高く売れたという。

 浦添市史によると、浦添村(当時)では人口9217人のうち44・6%が死亡。特に前田地域では549人が犠牲となり、戦死率は58・8%にも上った。

 富本さんは静かな声でつぶやいた。「多くの民間人が亡くなった。戦争は二度とあってはならない。私のような経験は何があっても子や孫の世代にさせたくない」