日本が海外から、いかにすぐれた国家や国民だと認識されているかを紹介する「日本礼賛本」が全国的にブームだという。とはいえ、著者の多くは日本人で「自画自賛」の傾向は否めない。こうした内容の本やテレビ番組が好まれる背景には何があるのか。褒めてもらいたい、という欲求は「自信のなさ」の裏返しのようにも映る。現在の日本社会を映しだす鏡の一つと捉えることも可能だろう。

 別の鏡もある。

 「成熟した民主主義国家」にあるまじき光景が、新基地建設が進む名護市辺野古で日々展開している。

 選挙結果に基づく民意が圧殺されていることに抗議し、非暴力に徹して抵抗を続ける一般市民が、国の強権的手法にさらされている。

 海上では海上保安庁、陸上では県警機動隊による市民の強制排除と、北部国道事務所によるテント撤去によって、民主主義を担う「声」が奪われようとしている。

 こうした中、沖縄防衛局は県などの抗議を受け流し、新基地建設にまい進している。

 辺野古で起きている、これらの現実を直視すれば、日本という国の隠れた本質と矛盾が浮かび上がる。

 「米軍は地元で歓迎されている」と公言してはばからない米政府と、日米同盟の盤石ぶりをアピールしたい日本政府にとって、辺野古での市民の根強い反発と抵抗は「見たくない現実」に違いない。

 「国家の暴走」を連日報じる沖縄の地元紙の存在を政府関係者が疎ましい、と感じるのも無理はないだろう。

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 だが、先日明らかになった海上保安庁の行動には、沖縄と在京のメディアを区別する意識が露骨に浮かび、後味の悪さがぬぐえない。

 同庁は今月17~18日、辺野古沖の海上警備について、全国紙やテレビ各局など在京メディアに、過剰警備を伝える沖縄タイムス、琉球新報の地元2紙の紙面を見せ「誤報」と指摘していたという。

 これまで同様の指摘や説明は地元メディアにはなく第11管区海上保安本部は「今後も予定していない」という。

 辺野古の現場で最も時間と労力をかけて取材を続けているのは県紙だ。沖縄には、辺野古の状況に精通した全国メディアの記者もいる。辺野古をめぐる地元紙報道への反論は、沖縄で堂々と唱えるのが筋だろう。わざわざ現場から離れた東京で在京メディアに「告げ口」するかのような挙に出るのは、「自信のなさ」の裏返しのようにも映る。

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 在京メディアは味方で、沖縄のメディアは敵という意識が、同庁に根付きつつあるのであれば改めてもらいたい。

 海の安全を担う海上保安庁は、基本的に地元メディアとも社会的使命を一にする。そうした認識があるからこそ、本紙もこれまで同庁の啓発や活動の意義を発信してきた。

 同庁は今回の経緯について「一部報道機関から説明を求められたため」と明かしているが、優先すべきは県民の信頼回復だろう。民意に背を向ける政府方針に正当性はあるのかを問い、本来の職務に立ち返る勇気を求めたい。