戦時体制下の学校教育の再編によって1941年、尋常小学校が国民学校へと改められると、子どもたちの生活は一変した。教育は愛国心を育てることに力を注ぎ、行事は軍国調一色に染まる。

 学校から通常の授業が消えていった。

 山原の自然に囲まれた村の子どもたちも例外ではなかった。大宜味村喜如嘉国民学校の様子を「喜如嘉の昭和史 村と戦争」(福地曠昭著)が克明に記録している。

 「国民精神総動員運動の一環として毎月8日を『大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)』と定め、戦争協力の行事がとり行われた。校門には大きな国旗が掲げられ、校長が詔書を奉読し、全校生徒で『海ゆかば』を斉唱した」

 「紀元節」「天長節」といった儀式が重視され、「戦没勇士墓地清掃」「食糧増産作業」などの奉仕活動が授業に組み込まれた。

 70年前の45年3月1日、いよいよ空襲が激しくなり、喜如嘉国民学校はほとんどの授業を取りやめた。3日には男子教員が全員応召され、学校は閉鎖された。

 23日に予定されていた卒業式が開かれることは、ついになかった。

    ■    ■

 喜如嘉に住む平良俊政さん(84)は、満州事変の前年の30年生まれ。通っていた喜如嘉尋常小学校が国民学校となったのは5年生の時だ。

 毎朝、登校すると皇居の方角に向かって深々とお辞儀する宮城(きゅうじょう)遙拝(ようはい)が日課だった。授業では神武天皇から始まる124代の天皇の名前を暗唱。「銃後の戦士」としての基礎的な訓練も受けた。

 「運動場で3組に分かれ、ルーズベルト、チャーチル、

蒋介石と書かれた人形を竹やりで『ヤー』と突き刺す。一生懸命でした」

 兵隊さんになってお国のために戦うことが男の子の夢だった。平良さんは高等科2年、14歳の時、軍人になることを決意し、海軍を志願する。

 「10・10空襲の後、那覇へ受験に行きました。役場で合格通知をもらった時はうれしくて」。同級生の羨望(せんぼう)の的だったという。

 入隊する前に米軍が上陸したため、集落の裏手にある山に避難した。山の中で日本兵の伝令役として走り回り、山中で米兵に小銃を向けられ震える思いをしたこともあったが、敗戦を知るその日まで、日本軍の勝利を信じて疑わなかった。

    ■    ■

 「皇国民の錬成」を目的とした国民学校が存在したのは41年から47年までである。

 初等科6年、高等科2年。教科書は皇国史観を強め、軍事訓練などが授業に取り入れられた。

 当時、国民学校に通う子どもたちは「少国民」と呼ばれていた。将来の戦争を担う貴重な戦力として位置づけられていたのだ。

 平良さんの同級生の一人は高等科在学中に予科練に入隊した。国民学校生が食糧増産のための「農兵隊」として沖縄戦に動員されたケースもある。ゲリラ戦を目的とした「護郷隊」に10代半ばで召集され、戦死した少年もいる。

 政府は44年7月、「沖縄県の老幼婦女子10万人を本土や台湾に疎開させる」ことを決めている。その数は対象となったお年寄りや子どもの3分の1にすぎず、実際に県外へ疎開した人は約8万人にとどまる。

 自分では逃げることのできない多くの幼子が戦闘に巻き込まれて犠牲となり、あどけない顔の少年兵が戦死した。

 少国民をつくりあげた偏狭な教育。捕虜になることを許さない玉砕戦術。本土決戦の時間を稼ぐための勝ち目のない捨て石作戦。疎開の不徹底。これら全ての「過誤」が重なったのが沖縄戦だった。

 沖縄戦は、「鉄の暴風」が吹き荒れる軍民混在の戦場で、多くの子どもたちが犠牲になった戦争だ。その事実を忘れてはならない。

 ……………………………

 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。