八重山の大浜国民学校に勤めていた石垣正二さん(沖縄戦当時32歳)が防衛隊に召集されたのは、10・10空襲から1カ月後の1944年11月のことである。

 酒屋、写真屋、食堂の亭主、商店主、農民、漁夫。指定された登野城校に集まった人たちは、寄る年波から体が硬くなって動作もぎこちなく、「兵隊という観念からはおよそ遠い存在だった」(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)。

 県立中央図書館の司書だった池宮城秀意さん(当時38歳)は45年2月、防衛召集を受けた。「17歳の少年と47歳のおやじに、同じように行動しろといっても、無理である。それは軍隊にはならない。ただの集団であった」(池宮城秀意『沖縄の戦場に生きた人たち』)。

 45年3月上旬にも、県内各地で大がかりな防衛召集が行われ、どこの地域でも、男という男はほとんど、根こそぎ軍隊に取られた。「現地自活に徹し、一木一草といえどもこれを戦力化すべし」-それが沖縄守備軍の方針だった。 一木一草とは決して比喩ではない。戦闘の足手まといになると判断した老幼婦女子や病者以外の、学徒を含む動ける男女すべてを、補助兵力として根こそぎ動員することを意味した。

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 防衛隊は沖縄戦を語る際に欠かせない存在であり、ある意味で学徒隊以上に沖縄戦を象徴する存在である。だが、本土ではその実相はほとんど知られていない。

 防衛隊は「陸軍防衛召集規則」に基づいて召集され、各部隊に配属された人々のこと。17歳から45歳までの兵役にもれた男性が対象だったが、実際には人数をそろえるため部隊の判断で対象年限を広げている。

 沖縄戦史家の大城将保さんによると、約2万5000人が防衛召集を受け、そのうち約1万3000人が戦死したという。

 米軍上陸前は、飛行場建設や陣地構築などが主な任務だった。防衛隊員は自分たちのことを自嘲気味に、「棒兵(ボーヒー)隊」、「苦力(クーリー)隊」「みのかさ部隊」と呼んだ。

 米軍上陸後、戦闘が激しくなると、防衛隊員は、守備軍の正規兵が壕の奥深くに身を潜めているときも、弾薬・食糧運搬、夜間斬り込みの案内など、危険な仕事を割り当てられることが多くなった。

 戦況が悪化するにつれて戦線の至る所で防衛隊員と正規兵の関係が崩れ始めた。浦添では、食事の配給をめぐって防衛隊員と正規兵が衝突し、壕のろうそくを消して殴り合うという事態も起きている。

 「ボーヒー隊どぅ、やるむんぬ、ひんぎーしる、ましやる」(どうせ棒兵隊なんだから、逃げて家族のもとに行ったほうがいいさ)。

 家族を残して召集された防衛隊員の中には戦線を離脱し、家族のいる壕に駆け込む人が少なくなかった。

 学徒隊と比べると、防衛隊のこの戦場での行動は際立っている。なぜ、このような違いが生じたのだろうか。

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 琉大名誉教授の米須興文さんは、あるインタビューで、身近で起きた「事実」を紹介している。

 「私の曽曾祖父は沖縄戦で迫りくる米軍第一線から逃れて南部に向かう途中、山羊(やぎ)に餌をやるのを忘れたことに気づいて家に戻ったところを米兵に射殺されたのです」。戦線を離脱した防衛隊もこのような行動規範を持っていた人々ではなかっただろうか。

 将来を担う島のエリートとして皇民化教育のシャワーをたっぷり浴びた若い学徒隊。多くが家族持ちで、負け戦のために命を捨てるのはばかばかしいと感じ、家族と一緒にいることを選択した防衛隊。両者の違いをどう解釈し、今後に生かしていくか。この課題の切実さは増すばかりである。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。