日本軍は、前触れもなく慶良間諸島にやって来た。

 1944年9月、海上特攻作戦のため海上挺進(ていしん)戦隊が座間味、阿嘉、慶留間、渡嘉敷の島々に駐屯を開始した。

 海上挺進戦隊の任務は陸軍が開発したレ(マルレ)と称する1人乗りのベニヤ製の特攻艇に爆雷を積み、敵艦に体当たりすることだった。

 100隻のマルレを一つの戦隊(104人)とし、それを支える海上挺進基地大隊とともに第一から第三戦隊の部隊が島々に配備された。

 特殊任務を帯びた海上挺進戦隊は、機密保持を極めて重視し、住民の動向にも目を光らせた。自由な往来は禁止され、島全体が閉ざされた空間となった。軍は島々を支配下に置いていった。

 日本軍は住民に「鬼畜米英」の思想を徹底して植え付けた。「捕虜になれば女性は乱暴され、男性は八つ裂きにされ殺される」と、繰り返し恐怖心をすり込んだ。

 軍人に対しては捕虜になることを許さぬ「戦陣訓」を説き、「軍官民共生共死」の考え方を住民指導の方針とした。戦時下では、住民は軍と生死をともにするという論理を住民に強いたのである。

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 米軍は45年3月23日から激しい空襲や艦砲射撃で慶良間諸島を攻略し、26日に阿嘉、慶留間、座間味、27日に渡嘉敷島に上陸した。

 日本軍は、米軍の激しい攻撃を受け、山中に撤退、持久戦に転じる。住民も砲爆撃を避けるためそれぞれの壕に避難した。米軍の攻撃が激しさを増し、緊張感が高まる中、住民は追い込まれていった。

 座間味島では上陸前日の25日夜、「忠魂碑の前に集まれ」という伝令が回った。住民はそれが「玉砕」を意味すると受け止め、迫り来る死を覚悟した。翌26日、上陸した米軍を目撃したことなどをきっかけに住民が避難していた壕などで相次いで「集団自決」が起きた。

 渡嘉敷島では、米軍が上陸した27日夕方から、住民は日本軍陣地のあった島北部の「北山(ニシヤマ)」に集められた。翌28日、日本軍陣地から来た防衛隊員が村長に伝令した後、「集団自決」が始まった。家族や親族でひとかたまりになっていた住民の間で手りゅう弾が次々と爆発した。

 慶良間諸島では「集団自決(強制集団死)」によって渡嘉敷島で330人、座間味島で177人、慶留間島で53人、屋嘉比島で2家族約10人が亡くなったとされる。

 一方で「集団自決」が起きなかった島もある。

 渡嘉敷島の東にある前島は国民学校分校長の機転で日本軍の駐屯を回避、米軍が上陸すると住民が集団で投降し、犠牲者を出していない。

 阿嘉島は、日本軍が駐屯したが「集団自決」は起きなかった。米軍が掃討作戦を緩めたためで、「集団自決」寸前まで住民が追い込まれていた構図は同様であった。

 なぜ、座間味島や渡嘉敷島などで「集団自決」は起きたのだろうか。そこでは、米軍への恐怖心を植え付けられた住民に「集団自決」へと誘導する軍命が伝わっていたのである。

 渡嘉敷村の吉川嘉勝さん(76)の家族は、北山で役場職員の兄が持っていた手りゅう弾が不発だった。その時、母親が叫んだ言葉に救われた。

 「生きられる間は生きるべきだ。命どぅ宝やさ」

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 その日から70年。28日は、北山から逃げる途中、砲弾に倒れた吉川さんの父親の命日でもあった。「日本軍が島に来なければ集団自決はなかった。北山に集まれという命令がなければ集団自決は起きなかった」

 渡嘉敷村の高台にある白玉之塔で、その日慰霊式典が行われた。式典会場から見渡す「ケラマブルー」の海は、どこまでも青かった。70年前の悲劇を私たちは、決して忘れてはならない。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。