1960~80年代にかけてコザや金武、辺野古などを拠点に花開いた音楽、オキナワンロック。そこには、圧倒的な音楽やパフォーマンスで、ベトナム戦争で荒れる米兵たちと対峙(たいじ)し、熱烈な支持を受けたミュージシャンたちが多くいた。そのオキナワンロックを創り出し、黄金時代を築き、日本の音楽シーンに影響を与えた4人に、当時の背景やロックに込めた思いを語ってもらった。司会はオキナワンロックに詳しい琉球大学名誉教授の高良倉吉氏。

オキナワンロックへの思いを語り合った(左から)喜屋武幸雄、ジョージ紫、かっちゃん、宮永英一、高良倉吉の各氏=沖縄タイムス本社

音楽誌の人気投票で1位を獲得するなど本土でも人気を集めた紫

人間タワーなど派手なパフォーマンスをみせたコンディション・グリーン

オキナワンロックへの思いを語り合った(左から)喜屋武幸雄、ジョージ紫、かっちゃん、宮永英一、高良倉吉の各氏=沖縄タイムス本社
音楽誌の人気投票で1位を獲得するなど本土でも人気を集めた紫
人間タワーなど派手なパフォーマンスをみせたコンディション・グリーン

【出席者・五十音順】(敬称略)
 かっちゃん(ロックミュージシャン)
 喜屋武幸雄(県ロック協会事務局長)
 ジョージ紫(「紫」リーダー、キーボーディスト、作曲家)
 宮永英一(「紫」ドラマー、県ロック協会会長)

【司会】
 高良倉吉(琉球大学名誉教授)


■50周年で記念史

 高良倉吉 2014年は、県ロック協会が50周年記念史を出し、沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。かっちゃんはロック分野で初の県文化功労賞をもらった。率直な感想は。

 ジョージ紫 記念史は沖縄でロックが芽生え、発展した経緯を形にして残した。そこに意義がある。

 宮永英一 私たちが演奏していた当時、ロックは反社会的で不良の音楽と思われていた。今になって日の目を見た。文化国家と言いつつも伝わらなかった思いが、ようやく伝わった感がある。

 かっちゃん 地球には幾つもの国境線がある。それを飛び越えていくのがロックであり、音楽。ジャンルは異なれど、鼓動・ビートは変わらない。若かったころに、その響きに震えた。

 喜屋武幸雄 私は資料をたくさん持っている。私が何も書かず、何も残さないで死んでしまうと、沖縄のロックの歩みはどうなるだろう。企業も社史を残すのだから、ロックも残そうと。ただ機が熟さずに10年待ったが、3年くらい前から準備して発行した。

 高良 コザの街は地元の人たちに加え、いろいろな人が集まってできた新しい街。そこでは何が生まれるのか関心があった。コザという街のイメージは。

 ジョージ紫 アメリカ国籍だったけど、越来村(現沖縄市)の出身。初めて触れた音楽は三線だし、琉球舞踊だった。

 僕はピアノ教室に通い、クラシックが音楽だと思って育った。ビートルズも雑音だった。しかし、ディープ・パープルなど多くのロックグループが出てきて、捨てたものではないなと感じた。西洋のミュージシャンがクラシックとロック、クラシックとジャズなどの融合を試みていた。僕もオリジナリティーを持つために、沖縄の音楽の取り込みに挑戦した。

 宮永 コザのセンター通りには奄美大島の人たちが多かった。ヤンバルや宮古からも来た。宮古に対する差別は激しくて、差別を凝縮した街だけど、活力にあふれていた。

 かっちゃん 私は宮古生まれの沖縄育ち。コザに移ると、目に入るのはキリンか象に見間違えるほどの米兵に、平仮名ではなくアルファベットの看板。聞こえるのは日本語でもウチナーグチでもない。年齢も性別も職種も関係なく、生きるのが一生懸命の街だった。

 喜屋武 コザは差別されていて、隣の地区に行けば石を投げられるし、ハーフの妹は散々いじめられた。ウチナーンチュがどうしてウチナーンチュをいじめるのか、子ども心にもおかしいなと感じ、詩を書くようになった。

 コザの街は混沌(こんとん)としていた。ヤクザがいて、米兵がいて、差別があって、何でもありの街だった。

■沖縄出身に誇り

 高良 それぞれが音楽に引かれたいきさつは。

 宮永 ベンチャーズのギターに憧れて入った。夢中になったが、ロックのロの字も知らず、好きな音楽をしていただけ。16、17歳で喜屋武さんとジョージ紫と、クリスタル・チェインを結成して、ビートルズのカバーなどバラエティー豊かに演奏していた。米兵からのリクエストはどんどん激しい曲になっていき、自分たちで選んだのではなく、いつの間にかロックミュージシャンになっていた。

 喜屋武 僕とかっちゃんは違う。宮永たちとは年齢が一回り違うからね。何もない中で「ギブミーチョコレート」と米兵の中を駆けずり回った。その中で、ジュークボックスの音楽が耳に入ってくる。那覇の工業高校に進学したら、フォークやギターが流行していた。みんな日本語で歌うけど、僕らは英語で歌う。ジュークボックスで英語を聴いているから。もう子どものころから、刷り込まれていた。

 かっちゃん 楽譜があっても読めないし書けない。耳に頼るしかなくて、ステレオに耳を当てて聴いていた。

 高良 コンディション・グリーンや紫が活躍する時代になった。そのころの状況はどうだったのか。

 宮永 ベトナム戦争が負け戦と決まったころから米兵の態度が変わった。始めは命令口調だったのが、「プリーズ シング フォー ミー」とお願い口調になった。激しいロックだけではなく、バラードも聴いてくれるようになった。レーナード・スキナードの「フリー・バード」など、真のフリーダムはないんだという彼らの心境が伝わる曲が多くなった。

 ジョージ紫 紫も、その流れを取り込んで進化していった。復帰後は本土の注目が集まった。B’zの松本孝弘も比嘉清正の影響を受けた。それまでのライブハウスと契約するハコバンドから、ライブハウスを運営するバンドになったのも紫は初めて。

 宮永 紫の本土デビュー(1975年)は相乗効果もあった。国際海洋博覧会、具志堅用高のチャンピオン獲得と第1回の沖縄ブームを引き起こした。内地ではまだ、ウチナーはばかにされて差別されていた。「自分は沖縄出身だ」と言えるきっかけをつくれたことがうれしい。

 喜屋武 紫は本土への道を切り開き、地元のロックを開いたのはかっちゃんだった。アメリカの歌を日本語に訳して歌う本土のグループと、ビール瓶や灰皿が投げられる環境でめきめき腕を上げたウチナーンチュ。紫がデビューして、本土はそのすごさに気付いた。

 米兵を音楽で黙らせる紫、蛇を投げつけるなどパフォーマンスで見せるかっちゃん。全然違うスタイルでやってきた。

■愛と平和と自由

 高良 若い世代へのメッセージは。

 ジョージ紫 紫が78年に解散して以降、オキナワンロックは東京志向で低迷していた。「このままではいけない」とチビ(宮永)が呼び掛けて、83年に恩納村でライブを行った。これが沖縄市で続くピースフル・ラブ・ロック・フェスティバルの始まり。名称は僕が付けた。約30年の間にオレンジレンジ、モンゴル800、HYが巣立っていった。ずっと続けて、もっと育ててほしい。

 宮永 ロックの不変の価値観は、愛と平和と自由。基地に囲まれた中部だからこそ、真の愛と平和と自由を世界に訴えられる。最近はお祭り騒ぎになっているが、大事な部分を忘れてはいけない。「ワンネー、ウチナーンチュヤンド」の誇りを持ってほしい。

 喜屋武 63年のウィスパーズ結成がオキナワンロックの創成期。紫、コンディション・グリーンで黄金世代を築いた。その世代はアメリカでの演奏が夢だったが、復帰後の世代はテレビ文化に毒されて日本が目標になっている。ビジュアルで見せる、目で見せる音楽になっている。

 僕らの時代は終わろうとしている。例えば100年古酒があったとしても、仕次ぎがなければ飲めなくなる。若い人が沖縄を拠点に高い意識を持って頑張れば、もっともっと良くなるだろう。紫、かっちゃん、マリーを超えるバンドが出てくる。

 高良 ロックには戦後に生まれた新しい音楽、文化の蓄積があった。これは発展途上で、進化を続けている。その過程で若い世代という仕次ぎも入ってくる。

 先輩方も引退するのではなく、持ち味を出してミュージックシーンを豊かにしてほしい。ハードもソフトも、みんなでつくっていこう。


伝説を見よ 4月12日(土)熱いステージ

 沖縄ロック界の伝説のミュージシャンたちが熱いステージを見せる「オキナワンロックコンサート」(主催・県ロック協会、沖縄タイムス社)は12日午後6時30分から、那覇市のタイムスホールである。入場料は前売り3千円。当日3500円(全席自由)。

 出演は、かっちゃんスペシャルバンド、ジョージ紫プロジェクト、宮永英一、サーミープロジェクト、スリービューティーズほか。司会はマスミ・ロドリゲス。問い合わせは県ロック協会、電話098(932)1638。または沖縄タイムス社文化事業局、電話098(860)3588。