政府は1944年7月7日、沖縄本島や宮古・八重山から本土へ8万人、台湾へ2万人の高齢者・女性・子どもを疎開させる計画を決定した。同じ日、サイパン島の日本軍が全滅。沖縄での地上戦が避けられない情勢の中、軍の食糧を確保し、戦力にならない高齢者や子どもを戦場から追い出す狙いがあった。だが沖縄近海では既に、米潜水艦が待ち構え、沖縄を出航した疎開船の一部は魚雷などで撃沈された。同年の10・10空襲での被害を境に疎開者が増えたが、翌年3月上旬までに九州約6万人、台湾約2万人と、10万人には届かなかった。

県平和祈念資料館制作のビデオに収められた、沖縄から疎開した児童たち=1945年夏、熊本県(徳吉裕さん提供)

県平和祈念資料館制作のビデオに収められた、沖縄から疎開した児童たち=1945年夏、熊本県(徳吉裕さん提供)