1944年7月19日に発令された県学童集団疎開準備要項に基づき、8月14日から9月中旬まで数回に分けて実施された。44年10月時点で宮崎、熊本、大分の九州3県に66校、計約5600人の学童が疎開。文部省の指示で県が推進したが、既に沖縄・鹿児島の海域は米潜水艦の攻撃による犠牲が公然の秘密となっていたため、希望者がなかなか増えなかった。原則、国民学校初等科3~6年の男子が対象だったが1、2年生や女子、高等科の学童も。2年以上の疎開生活は「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカーラサン(寂しい)」とも表現された。