1944年12月から翌年1月にかけて、第32軍司令部と県の担当者の間で、数回にわたって県内学徒の戦場動員が話し合われた。

 県は当初、女子生徒の戦闘参加に反対だったというが、米軍上陸必至の状況になって学校側も生徒の参加を強く求めるようになった。

 わが子を戦場に送り出す親の不安は一通りでなかった。

 沖縄師範学校女子部の古波蔵淑子は、非協力者扱いされるのを恐れ、ぜひ行かせてほしい、と父親に頼んだ。

 「イクサヤ ヒータイガ タタカイルヤル、イナグワラビヌ イチュルトクルアラン」。戦争は兵隊が戦うものであって女子どもが行くところじゃない、と父親は強く反対した(「戦争と平和のはざまで-相思樹会の軌跡-」)。

 県立首里高等女学校の宮城巳知子も、母親の言葉を書き留めている(「首里高女の乙女たち」)。

 「イナグマデン、イキワルヤンナー」(女まで行かないといけないのかねぇ)

 戦場に赴いた生徒たちの証言記録をひもとくと、わが子を案じる親の思いが、ひしひしと伝わってくる。

 だが、戦況は親子の情を引き裂き、家族をばらばらにした。

 米軍による上陸作戦が始まった45年3月下旬、県内の師範学校、中等学校、実業学校、高等女学校に通う男女学徒が一斉に動員された。

 女子生徒は看護要員として陸軍病院や野戦病院などに、男子生徒は鉄血勤皇隊、通信隊として各部隊に。その数およそ2300人。

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 看護要員として動員された女子学徒隊は、現在の中学生から高校生にあたる年齢である。彼女たちが戦場で見たもの体験したものは、何だったのか。

 泥んこの道を這いずり回る両足を切断した患者、ドラム缶のように膨れ上がり悪臭を放つ死体、ジャクジャクと蛆(うじ)がわき出てくる音、ガス弾で脳症を起こし苦しがって暴れ回る患者…。

 速成の看護教育を受けただけの生徒たちは、助かる見込みのない重症患者の世話をしながら、日ごとに増える学友の死にも直面した。

 閉ざされた島空間の中で、食糧確保のめどもたたないまま、老幼婦女子を除くすべての住民を根こそぎ動員し、玉砕戦法に打って出た第32軍司令部の戦いは、取り返しのつかない犠牲を学徒隊や住民にもたらすことになった。

 女子学徒隊の犠牲者は、解散命令が出た6月に集中している。「もう少し早く戦争が終わっていれば…」。多くの学友を失った人々の思いは切実だ。

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 戦後70年。生き残った人々は今、高齢化で体調を崩し、自ら体験を語る機会が激減している。学徒隊の体験があまりにも現在とかけ離れた凄絶(せいぜつ)な体験であるがゆえに、今を生きる若い世代がこれを受け止めることが難しくなっている。どうすればいいのだろうか。

 ひめゆり平和祈念資料館には、戦没学徒の名前を記した過去帳が納められている。資料館の初代館長で学徒隊を引率した仲宗根政善は、この過去帳に浄書された名前について、こうつづっている。

 「名実・名は実をあらわし

親のはじめて呼んだ名であり死後も叫び続けた名です 学友の親しみ呼んだなつかしい名でもあります その短い生涯の名に永遠の願いをこめ ご冥福をお祈りし あわせて世界の平和を祈願します」

 平易な言葉でつづられたこの文章には、沖縄戦を体験した人々の、うわべだけではない切実な「希求」が刻み込まれているように感じられる。

 この言葉に向き合い、そこから新しい時代にふさわしい言葉と行動を紡ぎ出していくのは、戦後生まれの「戦争を知らない大人たち」の役割である。(敬称略)

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。