ある満月の夜、月下美人の花が満開になるというので、母と2人、縁側で鉢を囲み観賞したことがあった。終戦から8年たっても、誰も戦時中の話はしなかった。だが、眺めていたつぼみが開き始めると、40代半ばの母が初めて、夫が戦死する直前に会いに行った話をした。その時、女としての母の一面を見た。当時私は12歳。強い印象的な記憶だった。

月下美人が満開になり、それにつながる私の母とのことを15歳の孫娘ケイラに話すと、スケッチしてくれた

 それから何十年かたって琉球舞踊の数々を舞台で見た。愛する者との別離の悲痛を、耐え忍ぶ女踊の代表作の一つに「花風」がある。かすり衣装の踊り手が踊りの終わりごろになると、腰を落とし観客に背を向け、開いた傘をぐるりと背中に回す。観客には後ろ向きのまま傘で表情を隠す。

 私にはその姿が、終戦後の母、あの月下美人を一緒に見た姿と重なった。踊りは普遍的な女の悲哀を表現した傑作だろう。

 終戦72年の今月、戦争に関する日米の映画・記録画像や書類が毎日メディアで流されている。

 以前は気付かなかった何かを認識させられる。戦争体験者たちには使命がある、と強調したい。鮮明な戦争体験があっても、生存者の罪悪感うんぬんと閉鎖的になるより、少しでも「次世代に考え、行動させる」という何らかの刺激を残す勇気を抱いてほしいと思う。

 今の日本は「平和ぼけ」しているとか、沖縄の若者たちは「県内志向で意欲がない」と見聞する。次世代の原動力を強化するのがわれわれ戦争体験者、1世の義務・責任だと実感している。絶対に風化させてはいけないからである。 

 名護中の恩師、故仲村文先生は1950年半ば、修学旅行を引率した。同窓生たちとユンタクしながら南部旅行を楽しんでいた私が、摩文仁と健児之塔辺りに来ると一人になり無口になっていた。それに気付いたのか、文先生が私に声を掛け、並んで歩いていた。 

 先生の言葉は、深く潜行していた自分の記憶を掘り出させ、私を語らせ始めた。

 終戦直後、名護の東江集落から団体で摩文仁行きのバスにはだしで忍び込んだ5、6歳の自分を思い出していた。文先生に語り始めた場所は、戦死した人の遺骨・遺品探しで一度は来た所だった。

 その当時は遺品や形の違う骨などが、まだ土壌から突き出ていた。土は軟らかく所々で雑草が伸び放題になっていた。自分の両足に巨大な赤アリがはい上がってきたので跳び上がったりしていた。そんなことをクモが糸を吐くようにしゃべったら、先生は私と視線を合わせ、こう言った。

 「今まで話したことをちゃんと記録しなさい。書きなさい。書かないといくらユンタクしても、事は起こらなかったことになるんだよ」。今また、先生の言葉を思い出している。いつか書こうと思ったら皮肉にも渡米後になっていた。(てい子与那覇トゥーシー)