今回帰省した際、どこでも目的を聞かれた。今回は私事中心に島中を回り有意義な思い出にもなった。

今回の帰省で黎明の塔を訪れたときの筆者=糸満市摩文仁

 なぐんちゅである私は稲嶺進市長さんにも沖縄到着の翌日にすぐ会えたことを感謝している。母の25回忌とシーミー、親戚付き合い、同窓会、踊り、空手関係、辺野古・同志仲間たちとの再会。そして県庁での公用といった19日間の日程だった。

 3月下旬から4月の半ばにかけての帰省は、戦後70年という節目を意識してしまう。それは防空壕(ごう)や太い頭巾、逃げ回った山道、空腹、さまざまな光景などと関連する。名護山での避難所の数々や逃げ隠れした山道、島尻で終戦直後の父の遺品探し、終戦直後の「魂魄(こんぱく)の塔」などが次々と頭に浮かんできた。再びそこへ行きたい衝動が強烈になった。

 4月9日に翁長雄志知事を表敬訪問した際は、知事公室関係者と新聞記者たちに囲まれ、県人会に関する公用を終えた。そして魂魄の塔の話題を私から持ち出した。知事のお父さまの翁長助静氏が魂魄の塔を建立したことは知っていたので、お礼を表現したつもりだった。一瞬、場違いの話題だったかとヒヤヒヤしたが、翁長知事は話に合わせて緊張を緩和して下さった。

 県庁内での用事を済ませ、早速運転手の弟と魂魄の塔へ向かった。魂魄の塔への訪問は私の生涯で3度目である。

 最初は塔が1946年に建立されてから間もなくのころだった。私は7歳だったと記憶している。生まれ育った名護東江区から1台のバスで戦跡巡り、遺品探しをする計画を耳にしていた。子どもは参加できないことは知っていたが、私は集落に止まっていたバスに忍び込んでいた。

 後で分かったことだが、誰かに発見された場所が読谷だった。それまでシートの下でかがみ、ガソリン臭い空気を吸いながらじっとしていた。母が皆に謝った後、私に目的地に着くまで沈思黙考するよう命じた。私はその時間が恐ろしかったのを覚えている。 目的地に着くと少しでも役に立とうと子どもながらに努力した。おばさんたちの荷物や水を持ったりした。

 団長が遺品を探す方法を実際に行動しながら説明した。健児の塔と黎明の塔辺りの地面や草むらを手足でこすったり裏替えしたりして、名前が記された水筒やヘルメットなどを探し回った。

 思い出すと今でも鳥肌が立つことがある。バスへ忍び込むために家から飛び出した私ははだしだった。赤茶のふかふかとした地面には赤アリの軍団が四方八方素早い勢いで走り回っていた。私の素足にもはい上がってきた。手でたたいたりジャンプしたり、蹴ったりしながら遺品を一生懸命探した。その辺りでは一番高い丘だった。それが牛島中将の要塞(ようさい)だと後で分かった。無数の赤茶の大アリがいる場所を見つけるとそれを触らずに大人に報告するのが私の役目だった。

 あれから67年ぶりにその丘に登ってみた。今は160の階段で出来上がっているその丘は小さく見えた。(てい子与那覇トゥーシー通信員)