1952年4月28日、対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効した。歴史的な日付であるにもかかわらず、日本と沖縄では「4・28」の歴史の記憶を共有することができない。

 日本にとって「4・28」は独立を祝う記念すべき日だったかもしれないが、沖縄にとっては新たな苦難の始まりの日であった。基地を維持するために米国が絶対的な統治権を保有し、軍事政策を全てに優先させてきた地域は沖縄以外にない。

 戦後70年という節目の年の、4月28日という歴史的な日に、ワシントンで、日米首脳会談が開かれる。

 首相が訪米土産を意識し、気負い立って進めてきた「安保法制の整備」や「日米防衛協力の指針(ガイドライン)の再改定」、「名護市辺野古への新基地建設」は、いずれも国民的な合意が得られていない。

 国会での十分な議論もないまま対外公約を先行させ、「国際公約だから」との理由で国会に追認を求めるようなことがあってはならない。

 首脳会談で辺野古移設を再確認すれば、沖縄の人々は再び「4・28」の日に切り捨てられた、と憤りを込めて思うだろう。

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 米軍は45年の本島上陸後、日本軍が建設した飛行場を直ちに確保し、その上、住民の土地を一方的に囲い込んで基地として整備した。

 講和発効後の50年代には、銃剣とブルドーザーによる強制接収が各地で相次ぎ、家や畑を失った農民の中には、やむなく南米に移住する人たちもいた。

 核兵器重視の大量報復戦略の下で沖縄には50年代半ばから核兵器が配備されるようになり、沖縄はアジア有数の「核基地」となった。

 60年代にベトナム戦争が本格化すると米軍は通常兵力を重視した柔軟反応戦略に転換し、北部の訓練場でのゲリラ訓練を活発化させた。

 「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」という当時の印象的な表現は、米軍自身が言ったことだ。

 復帰後も、過重負担の解消は遅々として進んでいない。日米地位協定の研究で知られた故本間浩さんは基地問題をめぐる法構造の問題点を繰り返し指摘してきた。

 「沖縄住民の意思の届かない仕組みの下に沖縄の軍事的利用が決定され、その軍事的利用による地域住民への負担だけが、沖縄住民に被せられている」

 戦後、70年間もこのような状況に県民を放置し、引き続き将来もこの状態を維持しようとする政府が存在すること自体、世界的に見て異常である。

 沖縄の中で自己決定権や政治的な独立を求める動きが急速に広がっているのを軽く見るべきではない。

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 2000年7月、糸満市の平和の礎で演説したクリントン米大統領は、沖縄の人々が自ら進んで基地を受け入れたわけではないことを認め、「沖縄における私たちの足跡を減らすために、引き続きできるだけ努力をする」ことを約束した。

 足跡を減らす努力を妨げているものは何か。

 戦後の米軍配置にからむ日米交渉を追っていくと、二つの点が浮かび上がる。

 米軍は過去に何度か沖縄駐留海兵隊の撤退計画を策定しているが、そのたびに駐留継続を求め撤退に反対してきたのは日本政府である。

 海兵隊を本土に置くと政治的問題が生じるとの理由で沖縄駐留の継続を強く主張し続けてきたのも日本政府である。

 だが、沖縄にいなければ海兵隊の抑止力は発揮できないというのは、根拠の乏しい主張である。森本敏元防衛相も「軍事的には日本国内であればいい」と本音を隠さない。

 歴史家のジョージ・H・カーは1956年に発行した『琉球の歴史』の序文でこう指摘している。

 「日本の政府はあらゆる方法をもって琉球を利用するが、琉球の人々のために犠牲を払うことを好まないのである」

 あれから一体、何が変わったのだろうか。沖縄を引火点にしてはならない。