厚生労働省が30日公表した旧ソ連による抑留で死亡した日本人名簿。このうち初公表となる北朝鮮・興南地域での死者1853人の中に記された「長嶺安章」の名に、恩納村の底原きよさん(82)は息をのんだ。「あいえーなー、うちのお父さんと同姓同名」。戦時中、出征を見送ったのを最後に行方知れずになった父。戦後70年を経て、北朝鮮で亡くなった可能性が高まり、「生きていたら100歳超えるねえと思ってきた。複雑だけど、安心もした」と、その最期に思いをはせた。(新垣綾子)

戦時中、旧満州などで亡くなった家族の位牌を手にする底原きよさん(右)と弟の長嶺安宣さん。位牌の上段右端に父安章さんの名がある=恩納村

 安章(あんしょう)さんは30歳だった1940年、恩納、今帰仁、南風原の3村から送り出された総称・臥牛吐(おにゅうと)開拓団の一員として満州(現中国北東部)に入植。妻カメさんと長女きよさんら1女2男を呼び寄せた。

 だが、41年開戦の太平洋戦争などで生活は一変。安章さんは日本陸軍に召集され、きよさんの記憶では「恩納の20数軒の人たちが集まり、戦地へ送り出した」。残された家族は敗戦後、ソ連軍に連行された満州の都市チチハルの収容所などで、過酷な難民生活を送る。氷点下30度の寒さと飢餓。満州で生まれた三男と四男はチチハルに移動した前後、はしかや栄養失調で死亡。元気者だったカメさんも天然痘で命を奪われた。

 戦後、沖縄の親類宅で別々に育てられた3子の元へ、安章さんも帰ってこなかった。ただ、同じ開拓団だった集落の男性が、安章さんと一緒にシベリアでの強制労働の後、北朝鮮へ移送されたと証言。病気になった安章さんは、そのまま北朝鮮に残されたという。

 長男安宣(やすのり)さん(77)は「おやじにはよく怒られ、はだしで逃げ回る僕を雪の中でも追いかけきた」と短かった父との日々が頭を駆け巡った。きよさんは「お父さんは私たちに何か伝えたかったのかな。心の節目になる」と語った。