私たちは今、歴史のどのあたりに、どこに向かって、立っているのだろうか。

 安倍政権誕生以来、劇的に変わったのは、憲法・安保をめぐる政治環境である。

 安倍晋三首相は2月、自民党の船田元・憲法改正推進本部長と会談した際、初めて改憲時期に言及し、来夏の参院選後が「常識だろう」と語った。

 来年夏の参院選の後、早ければ来年か、もしくは再来年に、国会で、憲法改正が発議されるかもしれない。

 有権者が国民投票によって憲法改正の是非を判断する-という戦後初めての歴史的な経験が、改憲派の単なる願望ではなく、現実の政治日程として語られるようになった。これは大きな政治環境の変化だ。

 船田本部長は4月に宜野湾市で講演し、安倍政権の掲げる「積極的平和主義」を憲法前文に盛り込むことに意欲を示したという。国民の理解が得られたわけでもない一政権の政策を憲法前文に盛り込むとは、恐れ入った。

 沖縄と憲法の関わりをひもとくと、戦後日本の、今も続くいびつな姿が浮かび上がる。5月3日の憲法記念日を「沖縄の視座」から憲法を考える日にしたい。

    ■    ■

 今からちょうど50年前の1965年5月3日、沖縄タイムスの1面中央に松岡政保主席(現在の県知事)からの「祝辞」が掲載された。沖縄にとって「初めての憲法記念日」を祝うメッセージである。

 米統治下の沖縄に憲法は適用されていなかったが、立法院(現在の県議会)は「日本国憲法の施行を記念し、沖縄への適用を期する」との理由から「住民の祝祭日に関する立法」を改正し、5月3日を憲法記念日と定めた。

 沖縄住民は敗戦後の45年12月、衆議院議員選挙法の改正によって選挙権を一方的に停止され、46年4月に実施された戦後初めての衆院選の際、選挙権を行使することができなかった。憲法制定の場に代表を送ることができなかったのだ。

 沖縄代表不在の国会で成立したその憲法は、72年の施政権返還に至るまで、沖縄に適用されなかった。戦後日本は、ある意味で「分断国家」だった、ともいえる。分断された地域の冷戦下の犠牲の上に、戦後日本が築かれたのである。

 「一体、自分は何者なのか」-戦後、沖縄の若い世代は大なり小なり、アイデンティティーの危機に陥った。米兵が加害者となった交通事故では無罪となるケースが多く、レイプ事件も相次いだ。

 戦後70年の今年は、米国がベトナム戦争に本格介入して50周年という節目の年でもある。ベトナム戦争で沖縄は、出撃・補給・後方支援基地としてフル回転した。

    ■    ■

 「平和憲法の下への復帰」は、復帰運動のスローガンとなった。

 だが、実際に施政権返還が実現し、憲法が適用されるようになって初めて気付いたのは、日米地位協定の前では憲法が時に、「無力」だということであった。

 憲法と国内法によって保障されたさまざまな権利が、安保・日米地位協定とぶつかった場合、政府は地位協定や関連取り決めで保障された米軍の権利を優先し、米軍の意向に従うことが多い。

 憲法改正問題は、時の政治状況や国際環境の影響を受けやすい。この状況を利用して一気に9条改正に突っ走る発想は極めて危険である。中国の海洋進出によって東アジア、南アジアの安全保障環境が悪化しているのは事実であるが、軍備増強による封じ込め策に偏り過ぎてバランスを欠けば、逆効果だ。

 憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある。

 沖縄戦を生き残った人々は、この前文に接したとき、干天の慈雨のように感じたに違いない。

 戦争は時間がたてばたつほど美化される傾向にある。若い世代にも届くような新たな平和運動を起こし、満身創痍(そうい)の憲法9条に魂を吹き込む必要がある。