県知事選さなかの昨年11月1日、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇。病を押して演壇に上がった俳優の菅原文太さんは、しわがれた声で熱弁を振るった。今から思えばあれは遺言だったのかもしれない。

 「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」 

 万余のスタジアムを包んだ「辺野古ノー」の熱気が、大きなうねりとなって県内各地に広がり、圧倒的な票差で翁長雄志知事を誕生させたのである。あの「1万人集会」から6カ月余り。名護市辺野古の新基地建設に反対する県民大会がきょう午後1時から、あの日と同じ場所で開かれる。

 県民大会は「地元の合意なしに基地建設を強行するのは許されない」というメッセージをあらためて県内外に発信する機会である。主張のまっとうさ、正当性を愚直に効果的に訴え続けていくことが重要だ。辺野古基金が示すように支持の輪は本土でも広がっている。

 辺野古の新基地建設、集団的自衛権の行使容認、日米ガイドラインの見直し…。安全保障政策の理由を説明するのに政府が決まって持ち出すのは「抑止力」という言葉である。

 だが、この言葉は、内容が極めてあいまいで、蜃気楼(しんきろう)のようにつかみどころがない。沖縄の海兵隊はほんとうに抑止力として機能しているのか。海兵隊は沖縄に駐留していなければ抑止力を発揮できないものなのか。

 相手が攻撃してきたときに耐え難い損害を与える意思と能力を持ち、そのことによって相手の攻撃を思いとどまらせる力のことを抑止力と定義すれば、答えはいずれもノーだ。

 在沖海兵隊は日本有事に備えて配置されている任務部隊ではない。尖閣有事の対応責任を負っているのは自衛隊で、海兵隊がオスプレイに乗って、自動的に、真っ先に、投入されるわけでもない。辺野古に置かないと抑止力として機能しないというのは、ためにする発言だ。

 在日米軍の抑止力は海軍や空軍、いざというときに米本土から来援する兵力などによって全体として維持されているとみるべきだろう。

 沖縄県は中国の中距離弾道ミサイルの射程内にあり、「兵力の分散=海兵隊の巡回配備」を主張するジョセフ・ナイ元米国防次官補などの意見も主流になりつつある。

 抑止力という言葉がなぜ、議論もないまま国民に受け入れられているのか。精神医療の分野で著名な中井久夫神戸大名誉教授の指摘は示唆に富む(『樹をみつめて』)。中井さんによると、人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感」のほうだという。

 「人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である」

 政府が中国の海洋進出や北朝鮮の核開発を持ち出すのは人間の「安全保障感」に訴えていることになる。だが、中井さんは、ここに重大な落とし穴があることを見逃さない。

 「『安全の脅威』ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない」

 軍事力に頼り過ぎる対話を欠いた安全保障は、相互不信と猜疑心(さいぎしん)を高め、かえって抑止力を低下させるおそれがある。

 沖縄の人々は戦争が終わったあとも、米軍基地が集中することによって国策に翻弄(ほんろう)され続け、「自治・自立・自己決定」の権利行使を著しく阻害されてきた。日米地位協定によって今も大きな制約を受けている。

 特筆すべきは、沖縄の住民意識が辺野古問題を通して大きく変わったことだ。

 県民大会の共同代表を引き受けた作家の大城立裕さんは指摘する(12日付本紙)。

 「これまで沖縄は、押さえつけられれば折れて引っ込むという歴史だった。政府はそれをまだ信じ込み、強硬姿勢で沖縄がつぶれると思い込んでいるが、現在の沖縄はこれまでの古い体質ではない」