結局、誰も遺品を探せず魂魄(こんぱく)の塔にたどり着いた。そこは最後の選択だと大人たちは語っていた。塔は終戦直後のにわか作りで、巨大丼を逆さまにした石垣墓は、所々穴があり、中が見えた。遺骨収集のために頂上は穴が開いていた。

魂魄の塔を訪れた筆者

 中をのぞくと、頭蓋骨や長い骨の数々、違うサイズで無造作に積まれていた。上の穴から落とされた際に起こったのか、私の手が届く距離に大きな頭蓋骨の目玉の穴に長い骨が突き刺さっていた。取り外したい衝動に駆られたのを覚えている。中を始終見ていたのは私と大人2人。自他共に認めるウーマクワラバーだった7歳の私は、好奇心でいっぱいだった。

 周囲には座って泣いている人たち、心身共に疲れ果てている人たち。私は母たちから離れて石垣墓の反対側にいた。突然、女の叫び声がした。上の穴から内側に向かって「ワッター○○よー!」と夫の名前を繰り返し叫んでいたのは母の知り合いの女だった。石垣にはい上がった女は穴の前でうつぶせの格好だった。両手足を広げ、絶叫しながら号泣していた。

 突然の叫びと行動に驚き私は母の方へ走って行った。母は女に降りるよう説き伏せていた。やっと降りてきた女は両股を広げ座り込もうとしながら、今度は尿を漏らし始めた。女がぺたっと座っていた地面の湿りにすぐ気付いた私はそこから反射的に離れた。

 母は無言で女の頭や背中をなでていた。私はこの女は「行儀が悪い」のだと決めつけ嫌悪感さえ抱いていた。その後、村の路地でその女が向かいから来ると避けて通った。

 母は戦争の話を避けていた。成長するうちに疑問が湧いてきた。あの女が石垣墓をよじ登った時に、なぜその石垣から小石一個も崩れ落ちなかったのか不思議だった。その事も母に話したかった。先祖からの知恵で頑丈に積み建てたのだろうと、台風島育ちの私は自然にそう納得した。

 あの女の悲劇とは対照的に気丈夫な母の姿を見るうちに逆に考え痛感した。環境に対する人間の適応性は、それぞれ相違があるのだと察知できた。家は、夫や息子が戦死した女性たちの集合場所になっていた。何十年がたち、私もその時の女性たちと同じ年頃になった時、夫に急死された。自分の立場からも彼女たちの境遇に共鳴できた。

 石垣崩れの物理的なことを私が気にしていたのは、自分の心の崩れを防ぐための無意識な心理防衛の作用であったことも理解できた。刺激的な光景の数々が7歳の私の脳裏に刻み込まれた。私のバス忍び込み事件について、あれから母と兄は他界するまで一度も話題にしなかった。

 魂魄の塔には友軍、敵軍、民間人、人種、若老男女の遺骨が葬られていることをずっと後で教えられた。新たにウチナーンチュの寛大さをあっぱれだと感心し誇りに思う。

 あの日、魂魄の塔を最後にバスは名護へ向かった。夫や息子が戦死し、彼らの遺骨は魂魄の塔に葬られていると信じた家族は、周辺の小石を何個か持ち帰った。遺骨としてそれぞれの墓に納められた。(てい子与那覇トゥーシー通信員)