戦国時代の武将・明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのか。日本の歴史上、最も有名なクーデターの一つ「本能寺の変」の見方が変わるかもしれない

▼三重大の藤田達生教授らは今月11日、本能寺の変の後に光秀が反信長勢力の豪族に送った書状の原本を発見したと発表した。縦11センチ、横56センチの書状には、信長に追われた室町幕府の15代将軍足利義昭を京都に戻すよう協力を求める趣旨の記述があったという

▼主君を不意打ちした動機は、信長に対する怨恨(えんこん)説や天下を取って代わろうとした野望説、何者かに操られたとする黒幕説など諸説ある。藤田教授らは「幕府再興が目的だったとの説を裏付けるもの」とみる

▼本能寺の変があったのは1582年6月2日。書状の日付は10日後の12日。信長自害の報を受けて駆け付けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に「山崎の戦い」で敗れ、光秀が命を落とすのは翌13日。時系列だけみても、戦国の動乱ぶりが分かる

▼「天下の謀反人」と伝えられる一方、光秀が治めた京都・福知山では「名君」と親しまれ、その誉れを残す。城下町を築き、茶の湯に精通した文化人の顔を持つ

▼〈心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ〉。光秀の辞世の句とされる。名声に恋々としない武将の美学とも取れる。人物像はなお謎めいている。(西江昭吾)