戦前、師範学校や中学校、高等女学校、実業学校には、各地から優秀な生徒たちが集まった。親は、爪に火をともすような貧しい暮らしであっても、子どもを学校に行かせるため、あらゆる苦労をいとわなかった。

 両親の期待と愛情を一身に背負って勉学にいそしんでいた生徒たちは、明確な法律の根拠もないまま戦場に動員され、多くの学徒が無念の思いを残して逝った。鉄血勤皇隊として動員された一中生の遺書(氏名不詳)には「もう一度、父母兄弟の顔が見たくてたまりません」とある。

 伊平屋島の老母は、学校に通っているころの子どもの姿を思い浮かべながら、こんな琉歌を詠んでいる。

 「国のためと思て 咲ちゅる 花散らち 跡目失なたる 親ぬ苦りさ」

 鉄血勤皇隊として沖縄戦を経験した元県知事の大田昌秀は、多くの聴衆を前に平和の問題について講演したときの出来事を語っている。

 「1人の老齢の婦人が突然、立ち上がって、『同じ師範隊の学生なのに、なぜあなたは生きて、わが家の息子は死んだのか』と大声で叫びながら、演壇の方へ詰め寄り、ちょっとした騒ぎになりました」(家永教科書訴訟、意見書から)

 老母は戦争で夫を失い、行方不明になった1人息子の消息を尋ね、何年もの間、沖縄中を訪ねて回ったという。

 わが子を失った母親の喪失感はあまりに深い。生き残った学友も、生存者罪悪感と呼ばれる感情に苦しめられ悩まされた。

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 一中(現在の首里高校)生に召集令状が届いたのは1945年3月下旬のことだ。「赤紙」ではなく「白い紙」だった。2年生に令状を届けるように命じられた比嘉森正(4年)は「こんな子どもみたいな連中に戦争ができるか」という気がして渡さずに帰校した。

 親権者の承諾のはんこが必要だったが、親が反対するのを知って勝手にはんこを押した者もいた。学校によっても、同じ学校の中でも、対応にばらつきがあった。

 沖縄戦当時、兵役に就く男子は志願兵を除けば17歳以上であったが、実際には14歳以上の学徒が軍人として戦場に動員されている。日本近現代史研究者の林博史による日本軍資料の発掘によって、そのあたりの事情がようやく明らかになった。

 鉄血勤皇隊の召集にあたって「県知事も含めた合意覚書が締結され、県知事と学校長が学徒の名簿を作成して軍に提出し、軍とともに召集にあたった」という事実である(三谷孝編『戦争と民衆-戦争体験を問い直す-』収載、林博史論文より)。

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 男子学徒隊は、上官から命じられるまま、さまざまな役割を担わされた。危険性が高い監視所勤務や夜間の斬り込み、対戦車用急造爆雷による体当たり攻撃、砲煙弾雨が飛び交う中でのメシの運搬…。

 ひめゆり平和祈念資料館編の『沖縄戦の全学徒隊』によると、動員された男子学徒は1399人、戦死者792人。死亡率は極めて高い。

 一中の城間期一(4年)は、弟の召集令状を自宅に持ち帰って母親に見せたところ、「お父さんは防衛隊にひっぱられ、お前も鉄血勤皇隊にはいるというのに、清まで連れて行くのか」と叱られた。

 父親は防衛隊から帰らず、弟も戦死。祖母と妹2人も艦砲で死亡。重傷を負った母はコザの病院で死亡した、という(兼城一編著『沖縄一中鉄血勤皇隊の記録』)。

 戦争によって失うものはあまりにも大きい。沖縄戦の実相は殉国美談とはおよそ懸け離れている。学徒隊の体験者から直接、話を聞く今が最後の機会であり、その必要性や社会的要請は、世の中がきな臭くなった今、高まるばかりである。(敬称略)

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。