琉球石灰岩台地に点在する自然洞窟のことを沖縄では「ガマ」と呼ぶ。沖縄戦でガマは、砲弾が飛び交う島に取り残された住民の最後の避難場所だった。

 南城市玉城にある全長270メートルの「糸数アブチラガマ」。修学旅行の中高校生を中心に年間11万人もの人々がここを訪れる。

 ガマを案内するのは地元の住民らでつくる「ゆうなの会」のメンバー。ガイドの一人で責任者の當山菊子さん(61)は「騒いだり、怖がったりしていた子どもたちが、入り口の狭い階段を下り、食器や薬品の瓶など遺物を目にしながら、真っ暗な地底に立つころには静かになる」と話す。

 手にしていた懐中電灯を消すと、光がまったく届かない洞窟で、聞こえてくるのは天井から落ちるしずくの音と、ガマ内に流れ込む水のせせらぎだ。

 「ここは人々の苦しみを想像する場所だ」と當山さんは言う。

 暗闇に身を置くと、語ることができなかった死者たちの声が聞こえてくるようだ。

 ガマで起こった悲劇を知ることなしに、沖縄戦の実相を知ることはできない。

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 アブチラガマは、沖縄戦の前年から日本軍が陣地壕として整備し、屋根付きの兵舎や武器倉庫などが作られた。

 1945年3月下旬、港川沖から米軍の艦砲射撃が始まると、糸数の住民約200人が身を潜めた。

 4月下旬からは南風原陸軍病院の分室となり、600人を超える負傷兵が運ばれる。治療に当たったのは数人の医師と看護婦、ひめゆり学徒ら。分室はさらに南へと撤退することになり、青酸カリを渡された重症患者ら約150人と、住民約50人が残された。

 70年前の今ごろ、6月6日から14日にかけて、アブチラガマは連日のように米軍の攻撃を受けていた。

 ガマ入り口(現在の出口)から黄リン弾が投げ込まれ、空気孔からガソリンを流し込まれる。ガソリンにうまく火を付けることができなかった米軍は、入り口に大砲を据えるが、急傾斜のため大砲がガマ内にずり落ちてしまう。

 再三にわたる攻撃に遭いながら奇跡的に生き延びた住民と負傷兵がガマから出たのは、沖縄での組織的戦闘が終わり、日本が降伏した後の8月22日のことだった。

 外では既に戦後生活が始まっていたのに悪臭漂う暗闇に5カ月もの間、隠れ続けていたのは、ガマ内で指導的立場にあった日本兵が投降を許さなかったからである。「生きて虜囚の辱めを受けず」との教育が徹底されていたことも米軍への投降をためらわせた。

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 沖縄戦ではガマのおかけで多くの住民の命が救われた。半面、ガマは軍民が雑居する極限状態の中で「醜さの極致」と形容される惨劇の舞台ともなった。 

 戦争で真っ先に犠牲になるのは子どもや障がい者ら弱者である。

 母親は泣きやまない乳児の口封じを命じられ、地元民は守ってくれるはずの日本軍にガマから追い出され、食糧を強奪された。スパイ容疑による殺害や、投降する住民を背後から銃殺したなどの証言も数多く残っている。

 糸数アブチラガマ整備委員会が編集した『糸数アブチラガマ』の聞き取り調査でも、「兵隊に子どもを泣かすなといわれ、手ぬぐいで口をふさいだ」「子どものために煮た芋を兵隊に奪われた」などの証言が記録されている。

 沖縄戦の特徴は、組織の規律を失った軍隊と逃げ場を失った住民が戦場で混在し米軍の猛攻撃にさらされたこと、非戦闘員の犠牲が際立って多いこと、犠牲者が6月中旬から下旬に集中していることなどである。

 これらの悲劇は、組織的降伏を早めていれば防げた悲劇だった。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。