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  • 沖縄戦デジタルアーカイブが読谷村出身者の戦没地データを分析
  • 1945年4月1日の米軍上陸時に集中。2日以降、村内での犠牲は減少
  • 5~7月は本島北部の避難先や収容所で飢えや病気で命を落とした

 戦没者の声なき声を聞く-。沖縄タイムス社とGIS沖縄研究室(渡邊康志主宰)は、70年前の沖縄戦で命を落とした読谷村出身者2747人の戦没地を地図に落とし込み、その足取りをたどった。

沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年4月)一つの赤点が1人の戦没者を表す

沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年5~6月)一つの赤点が1人の戦没者を表す

沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年7月)一つの赤点が1人の戦没者を表す

沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年4月)一つの赤点が1人の戦没者を表す 沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年5~6月)一つの赤点が1人の戦没者を表す 沖縄戦で読谷村出身者が亡くなった場所(1945年7月)一つの赤点が1人の戦没者を表す

 データと戦況などを基に検証したところ、(1)村内での死者は米軍上陸直後の4月初旬に集中した(2)収容所や本島北部への避難中に多くの人が栄養失調で亡くなった-ことが特徴として鮮明になった。

■村内死者、米軍上陸直後に集中

 沖縄戦デジタルアーカイブ「米軍は読谷を目指した」は、沖縄戦全戦没者の名前を刻む「平和の礎」(糸満市摩文仁)の戦没者名簿を基に、GIS沖縄研究室が戦没地を地図に落とし込み、分布の特徴を分析、読谷村史編纂(へんさん)室の豊田純志さんが解説した。1945年4月1日、沖縄本島で米軍最初の上陸地となった読谷村。日米両軍の動きに翻弄(ほんろう)され、村民が巻き込まれていった戦況が見えてきた。地図の点一つは、1人の戦没者を表す。声なき声の実相を時系列でたどった。(デジタル部・與那覇里子)

▽4月

 上陸した米軍の攻撃で読谷村内に死者が集中、740人が命を落とした。避難したガマによっても運命が分かれ、チビチリガマでは「集団自決(強制集団死)」で多くの犠牲者が出た。ガマ周辺で戦没者が集中していることが分かる。

 米軍が収容所を設けた2日以降、村内での犠牲者は減少した。村内は4月初旬をもって“戦後”となった。

▽5・6月

 村内での死者はほとんどいない。一方で本島北部での戦没者が増え、5月は141人に上った。食料が底を突き、住民は飢えと闘いながら山中で避難生活を続けたことがうかがえる。

 米軍進撃ラインの首里、西原近辺でも戦没者が多数確認される。日本軍が首里撤退を決める5月22日まで激戦が続き、村出身者の軍属や防衛隊員が巻き込まれた。米軍は南部を次々と手中に収め、6月には397人もの軍属が戦死している。

▽7月

 国頭村、大宜味村、東村などの北部で129人の住民が亡くなり、そのうち84人が栄養失調だった。組織的戦闘の終わりを知るよしもなく、山中をさまよい、爆撃によって亡くなったり、敗残兵の掃討に巻き込まれたりした恐れがある。

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■ウェブで無料公開

 読谷村出身者の足跡は、「沖縄戦デジタルアーカイブ~戦世からぬ伝言」の第2章「米軍は読谷を目指した」で見ることができる。同アーカイブは首都大学東京渡邉英徳研究室との3者共同制作。

 アドレスはhttp://www.okinawatimes.co.jp/sengo70/