糸満市米須。集落内を歩くと、くしの歯が欠けたように空き地が点在する。崩れた石垣が、かつてそこにあった家族の暮らしを想像させる。

 敷地内には大抵、コンクリートブロックを積んだだけの簡素で小さな建物がある。その中には位牌(いはい)や香炉、花瓶が置かれている。

 地域のお年寄りはその場所をこう説明する。「イクサウティ チネードーリ ソーン」(戦争で一家全滅したんだよ)。チネーとは家庭のこと、ドーリとは倒れるという意味だ。沖縄戦で誰もいなくなった世帯のことである。

 『米須字誌』(1995年刊行)には、沖縄戦が終結した45年当時の集落の「戦災地図」と各世帯の屋号、家族人数、戦没者の数、氏名、当時の年齢、戦没場所が記された「戦災実態」の調査結果が収められている。

 それによると、米須では全257戸のうち一家全滅が62戸(24%)、半数以上の家族が亡くなった世帯が93戸(36%)、半数以下が78戸(30%)。全人口1253人のうち戦没者は648人(52%)、実に半数以上の住民が亡くなっている。

 字誌や『糸満市史』の調査資料、屋号地図などを基に米須の一家全滅屋敷跡を訪ねると、厳粛な気配が立ち上る。ここは消えた家族を悼む「喪の空間」でもある。

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 沖縄戦末期の45年5月下旬、日本軍(第32軍)は首里城地下にあった司令部を放棄し、本島南部の喜屋武半島一帯に撤退した。本土決戦に備えた、勝ち目のない時間かせぎの戦は、一般住民の犠牲を甚大なものにした。

 喜屋武一帯は、敗走する日本兵約3万人と十数万人の避難住民が混在する状態となった。日本兵による住民の壕追い出しや、食料強奪、住民虐殺などが相次ぎ、戦闘に巻き込まれる住民が続出した。

 米須集落の北側にある二つの自然壕でも悲劇は起きた。住民の避難壕だった「アガリン壕」と「ウムニーガマ」に6月下旬、敗走した日本軍が入ってきた。

 日本兵が投降呼び掛けに応じなかったため、米軍はガソリンやガス弾を投げ込み壕を焼き尽くした。

 アガリン壕では50家族159人、ウムニーガマでは28家族71人の住民が亡くなった。それぞれの壕に建立された慰霊塔には、一家全滅を含む犠牲者の氏名が家族ごとに刻銘され、壕で起きた惨劇を無言で訴えかけている。

 糸満市に住む大城藤六さん(85)は、沖縄戦で家族8人のうち父親を含む4人を亡くした。一家全滅した親族も含めると30人余が犠牲になった。

 「身内だけでもこれだけ多くの人が死んだ」

 大城さんは戦後、出身地真栄平の戦争被害の実態を独自に調べ始め、その後「平和の礎」の刻銘調査にも携わった。「戦没者1人でも抜け落ちることがあってはならない」

 家族全員が亡くなり、名前が特定できない戦没者も少なくない。夫婦と子どもの家族3人が亡くなり、子の名前が分からないケースでは「○○の子」と刻銘した。

 「戦争で罪のない多くの人が死んだ。生きた証しを残さなければならない」。大城さんは強く思う。

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 県の資料によると、沖縄出身の戦没者数は一般住民約9万4千人、県出身の軍人・軍属2万8千人の合わせて約12万2千人とされているが、それも大ざっぱな数字で、実際はもっと多いとみられている。

 それにしても、なぜこれほど多くの住民が犠牲になったのだろうか。

 戦後70年。この問いを手放さずに問い続けることが、ますます重要になってきた。戦後の安全保障政策の大きな転換点にあって「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」(憲法前文)ためにも。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。