22日投開票の衆院選は終盤戦に突入し、沖縄県内でも4選挙区で各候補者が熱戦を繰り広げている。9人の主要な立候補者に歩んできた道のりや政治家を志したきっかけなどを聞き、若い有権者へのメッセージをしたためてもらった。

 

身に染みて感じた不条理 照屋寛徳さん(72)

美里村(現沖縄市)泡瀬沖の砂の不法採取に対して、損害賠償申し立ての代理人を務めた28歳の照屋さん(右)=1974年1月19日、県庁記者クラブ

 サイパン島の米軍捕虜収容所で9人兄弟の4番目として生まれた。具志川市(現うるま市)に家族で戻ってからも「戦後の何もない時期で、とんでもなく貧乏」だった。中学校の図書館で新聞を毎日読みあさっていた。

 「弁護士になって貧困や人権侵害に悩む人とともに戦いたい」。経済的理由から進学は諦めかけていたが、学費を奨学金で賄い、高校と大学に通った。

 琉球大学卒だが、本当は司法試験の合格者が多い中央大学=東京都=を希望していた。しか

「飢えている人を身を削って助ける精神。共生社会をつくるのが若者の使命」と話す照屋寛徳さん

し当時本土へ進学するにはパスポートが必要。経済的にも苦しく諦めた。「移動の自由もない」。米軍統治下の不条理を身に染みて感じた経験だ。

 選挙では「憲法改悪を止めること」を強く訴える。無憲法状態の沖縄で育ったからこそ憲法の重要性を知っている。「ウチナーの基本的な人権を守る」。一言ずつかみしめるように話す言葉は、基地問題の話題になると特に力強さを増す。

 事務所を訪れた支持者には、人懐っこい笑顔で肩を抱き合い握手を交わす。「しまくとぅばでウチナーンチュと話すのが大好き。心を開いてもらえると、悩みが聞こえる。その声を届けるのが政治家としてのやりがい」と体を前に乗り出し、顔をほころばせた。

 若者へのメッセージは「飢えている人がいたら身を削ってでも助ける。困っている人や障がいがある人とも共生する社会をつくって」との気持ちを込めた。(社会部・宮里美紀)

親に気を使った少年時代 宮崎政久さん(52)

弁護士を目指そうと決意した23歳の宮崎さん(右)=1989年3月、東京都千代田区の明治大学の卒業式会場

 「高校時代、進級が危うい時期もあった」。弁護士で衆院議員。華々しい道を歩んできたように見えるが、何度も辛酸をなめてきた。「司法試験は4回目で合格。最初の試験の時は合格率D判定。途方に暮れた」と苦笑いする。

 長野県で生まれた。父親は転勤族で全国各地に引っ越した。母親は今でいう非正規雇用。決して裕福とはいえず、小学生の頃「友達のいる学童に入りたかったが、親に気を使い言えなかった」と振り返る。

 この時の強烈な思い出が自身の重要政策の「沖縄子育て特区構想」の原点となる。認可外保育園の防音工事もその一つだ。学童の支援員への待遇改善、全国並の保育料など、子育て政策への思いは尽きない。

 困っている人を助けたいと弁護士になった。

挫折をくり返しても「人生進み続けたら『イイコト』あるよ」とエールを送る宮崎政久さん

司法修習で沖縄に滞在し、人の優しさや温かさに触れ惹(ひ)かれた。転校続きで古里と呼べる場所がない中、沖縄の同級生や地元の絆の強さに憧れた。1995年に小堀啓介法律事務所で働き始めると仲間が増え「沖縄のために、沖縄に恩返しがしたい」と感じるようになった。弁護士を続ける中で立法や改正をしなければ解決できない課題があると感じ、政治の道へ進んだ。

 昔から政治に興味があったわけではない。何度も挫折し不満や不安を感じ、やる気が出ないこともあった。「それでも一歩を踏み出すことが大事。前へ進め。進む道はどこでもいい。道は必ず開けてくる。必ず何か良い結果が待っている」(社会部・川野百合子)

>> マイ・ロード 沖縄1区(http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/157184)