私の記憶はB29、友軍、防空壕、手りゅう弾などの用語に始まり、それに伴い周囲の人間の行動と光景が浮かぶ。1944年、母は夏にお産し12歳、3歳、1歳そして新生児を抱え夫を戦地へ送った。3歳は私で兄弟3人。

名護市の集落、東江の小山を「じんが森」と呼んだ。以前はそこから長い白浜が見えた=名護市

 戦争の話は母と兄が近所の人たちと交わしていた。空からはB29、陸では友軍が泣く子を殺しにやって来る。だから防空壕へ隠れる。それが私の戦争だった。友軍に発見され壕の全員が殺される前に、身内が泣きやまぬ幼児の口をふさぎ窒息死させた。こんな実例は戦後になって聞いた。

 兄は1歳すぎの弟を背負い、母は新生児を、私は彼らの後を追うこと。この話は毎日聞かされた。生存の覚悟を3歳半の私に短時間で洗脳しようとしたのであろう。12歳の兄に出世前の父はそれを責務とした。兄は毎日私を直立不動させ、私の名前、誕生日、年齢、住所、家族皆の名前を朗読するよう命じた。間違うと叱られ、びんたも食わされた。泣くともっと打たれたので我慢した。

 避難する日、私は上下黒の男装、断髪に頭巾。名札は上着の左、その裏のポケットには書類。そして「背のう」にはおにぎり2個、水筒、手拭い、ちり紙などを入れた。なぜ3歳半の女子が男装、断髪されたかは小3ごろになって分かった。集落に男女の区別があやふやな叔母さんがいた。シベリア・満州にいたころから護身のために男装、断髪だと村人たちは話していた。

 最初の防空壕は、他の家族と一緒で私たちは壕入り口の近くにいた。外で遊びたい私の衝動と好奇心は母と兄を悩ませた。兄が食料探しに出ている間は、外に出たがる私の胴をひもで縛り、母の手が届く距離に制限された。空腹が続くといろんな物をあさった。母のかばんには常に「お芋」1個が入っていたのを覚えていた。手りゅう弾で、それが何かも兄に教えられた。

 B29は名護の空でも音を響かせ町を火事にした。音がすると私は壕から走り出て手をたたいてはしゃいだ。兄に何度も後ろ襟をつかまえられ壕に引き戻された。一度小さい建物が爆弾の投下直後に炎上するのを目撃した。それは私が通うはずの幼稚園だと兄に言われ、その時初めて恐怖感を覚えた。その後B29の音がすると壕でじっとしていた。

 子持ち家族は「じんが森」の裏側の山に移動する話になった。母と兄は弟たちをおんぶし荷物を担ぎ前進した。私は山道で何度も迷った。所々で見つけた壕に入り母たちのことを尋ね回った。ようやく家族を見つけた時、母は目を閉じたまま私の頭をなでた。兄は私を探しに出ていた。「背のう」から取り出したおにぎりは少々臭かったが残さず食べた。45年夏、山から下りるとB29は飛んでいなく友軍もいなかった。私は4歳半になっていた。

 人間の記憶はIQや頭脳レベルうんぬんより、ドラマ的体験と強制で特に児童の記憶力は強化される。戦争が及ぼす影響はどこでも誰にでも何らかの形で残る。時と場合によっては否認や抑圧としての心理防衛になり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状としても露出される。 

 沖縄は過酷な地上激戦があったがワッターウチナンチュの陽気な民族性に脱帽する。(てい子与那覇トゥーシー通信員)