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  • 1800年代の琉球王府公文書の輸送帆船の記述を研究者が確認した
  • 名護市辺野古の大浦湾一帯が多くの船が活動していた事実を示す
  • 海上交通の船籍地として「碇石」の利用の蓋然性の高さを裏付ける

 新基地建設が進む名護市辺野古の大浦湾一帯で、多くの輸送帆船が停泊していたことを示す琉球王府の公文書の記述があることが1日までに分かった。同地域が海上交通の地方拠点だったことを示唆するもので、琉球大学の真栄平房昭教授が確認した。同地域では、米軍キャンプ・シュワブ内の海辺で近世の船の木製いかりを海に沈めるための重り「碇石(いかりいし)」を県教委が確認しており、埋蔵文化財調査の必要性が指摘されている。

琉球王府の「仕上世座」が作成した1835(道光15)年の公文書。「久志間切大浦村」「久志間切川田村」などの文字が確認できる。(傍線は本紙加筆)

 輸送船舶の記述が確認されたのは、薩摩への上納物などを取り扱う琉球王府の部署「仕上世座(しのぼせざ)」が作成した公文書で、1835(道光15)年の手形の写し。那覇市が保管していたマイクロフィルム資料のコピーから確認されたが、原本はハワイ大学にある可能性がある。

 船の規模を示す反帆数や石高数(積み荷量)、船籍地、船頭名などを具体的に記載。東、勝連などの地名とともに、久志間切の「大浦村」「川田村」「天仁屋村」など、キャンプ・シュワブが位置する大浦湾一帯の村落が船籍地として多く記載されている。

 同地域の海上交通の実態は、明治期に国頭などからマーラン船で薪などを輸送した史実が知られているが、琉球王国時代の船舶輸送の実態は不明な点が多く、史料の確認は極めてまれ。

 真栄平教授は「同地域を拠点に多数の帆船が活動していたとの記述。海上交通の船籍地として碇石を利用していたという蓋然(がいぜん)性の高さを裏付けるものだ」と指摘。

 本島北部の港の歴史などを研究している今帰仁村歴史文化センターの仲原弘哲館長は「近世資料はなかなか出てこないので1800年代の記述は珍しい。今後は東海岸の船の航路にも注目する必要がある」と話している。  (与儀武秀)