「10・10空襲」のあと、耳を疑うような噂(うわさ)が流れ、政府や本土の報道機関、議会筋に伝わったという。「米軍が奇襲攻撃に成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」というのである(大城将保解説『沖縄秘密戦に関する資料』)。

 無線通信兵として沖縄戦を戦った野村正起は、自身の体験をまとめた『沖縄戦敗兵日記』の中で、軍司令部から指示された防諜(ぼうちょう)に関する心得について書いている。

 「戦前、南方に出稼ぎに行っていた多数の沖縄人が、アメリカ軍の来攻前後に上陸して、一般住民の中にまぎれ込み、日本軍の部隊の所在・陣地・行動などをアメリカ軍に連絡し、あるいはデマを飛ばして後方攪乱を企てるなど、活発なスパイ活動をしているとのことである」

 沖縄住民スパイ説は、戦争が終わったときにも、日本兵の間で口伝えに広まった。「沖縄戦に敗れたのは沖縄人がスパイ行為を働いたから」だという悪質なデマが九州の疎開地にまで届き、憤慨した沖縄出身の貴族院議員・伊江朝助が戦後の第89帝国議会でこの問題を取り上げている。

 デマが流れたというだけの話ではない。沖縄戦では、実際に日本兵が住民をスパイ容疑で殺害するという事件が各地で相次いでいる。

 追い詰められた日本軍は組織の規律を失い、あるときは住民を壕から追い出し、住民の食糧を奪い、またあるときは、投降を呼びかけにきた住民を殺害した。日本軍は「後門の狼(おおかみ)」だった。

 厚生省が1960年に14歳未満の戦没児童の死因について調べたところ、「友軍よりの射殺」が14人にのぼった。

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 友軍はなぜ、自国民に手をかけたのか。沖縄人スパイ説がこれほど深く日本軍の中に浸透していたのはなぜか。

 国家総動員法に基づく総動員体制の下で、戦前の日本には軍機保護法や軍用資源秘密保護法、国防保安法など軍事上の秘密保護を目的とした軍事法制が数多く存在し、言論や出版は厳しく統制された。

 軍機(軍事機密)保護の重要性を啓発するため防諜週間が設けられ、「軍機を語るな 沖縄県」というポスターが各地に貼られた。

 防諜思想の普及に協力したのは県や市町村、警察署、在郷軍人会、警防団、青年団、隣組などの組織である。

 「少しでもこれ(軍機)に違反する者は罰せられてしまう。たとえば、海港、要塞のたぐいのあるところでは、まわりの風景が美しいと思ってもカメラを向けてはならなかった」(牧港篤三『戦前・戦中の言論と報道』)。

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 防諜とはスパイ活動などによって軍事秘密や国家秘密が漏れるのを防ぐこと。第62師団の命令文書は、沖縄を「デマ多き土地柄」「防諜上、極めて警戒を要する地域」と指摘している。

 兵員、兵器、食糧などすべてが不足していた第32軍は、現地自給に徹し、住民を飛行場建設などに当たらせ、老幼婦女子以外の住民を防衛隊や学徒隊として根こそぎ動員した。第32軍は軍機保護について、そもそもの始めからジレンマを抱えていたのである。

 住民スパイ視の背景に、沖縄住民に対する軍部の抜きがたい蔑視感情や不信感があったことも見逃せない。

 だが、スパイ行為が証明されたケースはほとんどなく、スパイ行為によって「敵に通じた者」は沖縄の住民の中にはいなかった、というのが定説だ。 

 市町村史の戦時記録には、住民スパイ視や住民殺害の事例が数多く紹介されている。「沖縄人はみんなスパイだ」と日本兵から暴言を浴びせられた住民も少なくない。

 この問題を過去の不幸な事例だと見て歴史にフタをすることはできない。「なぜ」という問いの切実さはむしろ高まるばかりである。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。