1944年の対馬丸撃沈事件から生還したうるま市の元小学校教員、上原清さん(81)が8月に、撃沈から6日後に漂着した鹿児島県の奄美大島を71年ぶりに訪れる準備を進めている。当時10歳の自分を手厚く介抱してくれた島の人々へ感謝の意を伝えるとともに、那覇市内の小学生たちが折った鎮魂の千羽鶴を持参し、行政職員らと犠牲者を洋上で供養する。「流れ着いた現場や関係者を訪問するのは、年齢的にもこれが最後という思い。しっかり目に焼き付けたい」と話す。

開南小児童が折った鎮魂の千羽鶴(手前)を携え、71年ぶりに奄美大島を訪れる予定の上原清さん=うるま市の自宅

 垣花国民学校4年生の時、学童疎開船の対馬丸に乗船。44年8月22日、米軍潜水艦「ボーフィン号」の魚雷が鹿児島・悪石島沖で船に命中後、甲板から海に飛び込み、6日間漂流して奄美大島の大和村にたどり着いた。氏名が分かっているだけで1485人が死亡した対馬丸事件。撃沈現場から約150キロ離れた奄美大島内の宇検村、大和村、実久村(現瀬戸内町)には100人以上の遺体が漂着し、21人の生存者が保護されたとされている。

 6年前には悪石島沖で他の生存者と一緒に洋上慰霊祭に参加した上原さんだが、奄美に足を踏み入れるのは救助されて以来初めて。8月上旬に予定する「祈りの旅」では、上原さんが流れ着いた大和村今里や、収容された瀬戸内町古仁屋の旅館を訪問するほか、多数の遺体が打ち上げられた焼内湾の洋上で慰霊祭を営んだり、当時を知る人々から話を聞いたりする。

 旅を前に奄美の人たちに事件の詳細を知ってもらおうと、地元紙「南海日日新聞」に自らの体験を6回連載した。「戦後70年がたち、対馬丸の証言者も減っている。旅の様子は映像記録に残し、(那覇市の)対馬丸記念館に託したい」と使命感に燃える。