太平洋戦争のさなかの1944年8月、米潜水艦の魚雷に沈められ、1485人が亡くなった学童疎開船「対馬丸」の生存者、上原清さん(81)=うるま市=が4日から4日間の日程で、奄美大島を旅した。島南西部の焼内湾とその周辺には、生還した21人と105人の遺体が流れ着いたとされる。上原さんは戦後初めて足を運ぶ「命を救われた島」で、71年前の記憶をたどり、感謝の気持ちを表した。(社会部・新垣綾子)

=5日、奄美大島沖

=6日、大和村の今里公民館

=6日、瀬戸内町古仁屋

=5日、奄美大島沖 =6日、大和村の今里公民館 =6日、瀬戸内町古仁屋

■漂着地点を探す

 「傾斜が急な山で、岩にしがみつき、必死の思いで上陸した」。大和村今里の沖合。上原さん(左)は記憶を頼りに、漂着地点を探したが特定できず。奄美大島沖では宇検村や対馬丸記念館の協力で、犠牲者を悼む初めての洋上慰霊祭も行い、灯籠のほか、千羽鶴やお菓子などを海に流した

■住民と固い握手

 漂着後、手厚く介抱された大和村今里区で、当時の住民の中元静好さん(80、右)と長男壮介さん(57)、永田義久区長(69)から話を聞き、上原さん(左)は「今里には命の恩があります」と固い握手を交わした。中元さんは救助や埋葬の現場は見ていないが、大人たちから「生存者の男の子2人が、医療知識のある『押川さん』という人の家で治療を受けた。夜通し泣いていた」と聞いたという。「対馬丸の悲しい出来事は今も忘れられないが、戦後は生きるのに精いっぱい。子どもたちにはあまり話したことがない」と語った

■嶺山旅館の跡地

 生存者が収容され、約1カ月過ごした嶺山旅館の跡地周辺に立つ上原さん(中央)。旅館の女将のめい、東三枝子さん(86、左)によると、旅館は生存者が帰郷した1944年のうちに空襲で全焼して廃業、女将は亡くなった。「対馬丸の生存者が宿泊したことは、初めて知った」と驚く。上原さんの記憶では、旅館は木造2階建てで、玄関を出ると船着き場があった。昔をよく知る人からも話を聞いた上原さんは「イメージとぴったり。来たかいがあった」