1945年8月15日、米軍政府の諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)会」を設立するための会議が、石川市で開かれた。

 集められたのは戦前の政治家や教育者たち。沖縄の行政機構を再建しようとの会議の冒頭、軍政府副長官から「正午より天皇の終戦放送がある」と告げられた。

 出席者を代表して後に沖縄民政府の初代知事となる志喜屋孝信氏ら3人が、軍政本部で玉音放送を聞いた。

 会議に出席した安谷屋正量氏(初代琉球工連会長)はこう回想している。「終戦を知らされみんなシュンとなった。しかしそれまで戦火に追われ、生命の危険にさらされショックというショックを味わいつくしただけに、それ以上の動揺はなかった」(沖縄タイムス社編『沖縄の証言 上』) 

 70年前の8月15日に昭和天皇が終戦の詔書を読み上げたラジオ放送を玉音放送と呼んでいる。「堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」。自らの肉声でポツダム宣言の受諾を告げたのである。

 本土では重大な放送があることが前日から予告され、当日はラジオの送信出力も大幅に上げられた。

 しかし家は焼け、着の身着のまま逃げ惑った沖縄県民のほとんどは、玉音放送があることさえ知らなかった。

 一般住民で玉音放送を耳にした人はそれこそ少ないが、久米島の米軍のキャンプ近くに住んでいた徳田球美子さん(78)=那覇市=は、米軍から「大切な放送がある」と言われラジオを聞いた。

 小学2年生だった徳田さんの記憶に残るのは、焼け残った奉安殿にでんと置かれたラジオと、独特な抑揚の声である。漢語の多い文章は難解で「何のことか理解できなかった。日本が負けたということは後で分かった」と話す。

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 本土では「これで戦争が終わった」と玉音放送に平和の訪れを重ねる人が多い。

 御前会議でポツダム宣言を受諾することを決め連合国側に伝えたのは8月14日で、日本が降伏文書に調印したのは9月2日だが、戦後、玉音放送のあった15日が「終戦の日」として定着するようになる。

 だが沖縄では、米軍が本島に上陸した4月に捕虜となり収容所生活を始めた人もいれば、7月末には早くも石川高校が開校している。

 一方で日本軍による組織的抵抗が終わった6月以降も、一部の住民や敗残兵が北部の山中をさまよった。 

 南西諸島の日本軍代表が嘉手納の司令部で正式に降伏文書に署名したのは9月7日のことである。

 終戦の日が沖縄では必ずしも「平和の到来」につながらなかったのは、久米島で起きた陰惨な事件が象徴している。

 島に配備された日本軍が朝鮮半島出身の谷川さん一家7人を殺害したのは8月20日。米軍のゴミ捨て場から食糧を拾っていたという谷川さんを「スパイ視」してのことだった。

 「わらの下から4本の足が飛び出ていた」。徳田さんは、自分と同年代の谷川さんの娘2人の遺体を目にし、大きなショックを受けた。

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 沖縄守備軍を率いた牛島満司令官は自決する前に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との言葉を残した。「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、最後の一兵まで戦えとの指示である。沖縄は本土決戦の時間を稼ぐための「捨て石」となった。

 地上戦の舞台となった沖縄と本土では戦争体験の質がまったく異なる。戦争体験が異なるだけでなく、戦後体験もまったく違う。

 72年に施政権が返還されるまで本土と沖縄は歴史体験を共有していない。

 沖縄の戦中・戦後を理解することなしに、基地問題の根っこにあるものを理解することはできない。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。