しがみついていたイカダが何かにぶつかり「ガッカン」と音がした。浜辺にアダンやモクマオウが見えた。「島だ、助かった」。14歳の當眞秀夫さん(85)=沖縄市=ら1788人が乗った「対馬丸」が、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦の魚雷に沈められてから22日で71年がたつ。約1週間の遭難から少年を救ったのは、奄美大島の人々だった。

焼内湾を背にする大島安徳さん(左)と孫の綾さん。綾さんは宇検村教委の臨時職員として村誌編集にもかかわり「対馬丸事件や祖父の体験を忘れてはいけない」と語る=4日、宇検村宇検

當眞秀夫さん

対馬丸と奄美大島関連図

焼内湾を背にする大島安徳さん(左)と孫の綾さん。綾さんは宇検村教委の臨時職員として村誌編集にもかかわり「対馬丸事件や祖父の体験を忘れてはいけない」と語る=4日、宇検村宇検 當眞秀夫さん 対馬丸と奄美大島関連図

■宇検のおかげ

 當眞さんはあの時、甲板の上。同級生の近くに1発目の魚雷が命中した直後、2発目、3発目が火を噴き、海へ投げ出された。魚雷の破片で左足に重傷を負ったが「痛さなど感じる余裕もなかった」。京都生まれだが、当時は美東国民学校高等科2年生。沖縄の祖母宅で暮らし5年がたっていた。対馬丸に乗ったのは、仕事で単身京都に残った父のもとに帰るため。一緒に乗船した母と妹弟3人は船とともに海底へ消えた。

 同じイカダにつかまったのは、當眞さんを含め6人。夏真っ盛りとはいえ、夜は震えるほど寒く、遭難4日目ごろ、誰かが「那覇の街灯が見える」と口にした。幻覚だった。「那覇に帰る」と1人ずつイカダから手を離し、そして見えなくなった。「手を合わせることしかできなかった」。當眞さんだけを残したイカダはやがて撃沈地点の南方約150キロ、奄美大島の南西部宇検村にある船越(フノシ)海岸に流れ着いた。

 安心したせいか気を失ったが、間もなく宇検の漁師3人に救助される。弱りきった當眞さんをおぶって集落へ走り、水を飲ませ、靴をはかせてくれた。「今の僕がいるのも宇検の皆さんのおかげ。本当にありがたいことです」

■軍のかん口令

 傷だらけの男性2人が地元住民に助けを求め、集落は大パニックになった。

 宇検に面する焼内湾には、生きた人間よりもはるかに多い105人の遺体が漂着。青年団員だった大島安徳さん(88)は「パンパンに膨れた子、サメに手足や腹を食いちぎられた人もいた」と思い返す。緊急事態を知らせようと半鐘を乱打すると、集落の男性たちが駆け付け、度数の高い焼酎を飲み干した。「遺体があまりに痛々しく、酔っ払ってでもいないと寄り付けなかった」。40~50人の遺体をフノシ海岸や無人島の枝手久島に埋めた。

 敵による船の沈没と多数の犠牲は、戦意高揚に躍起の日本軍にとって最も都合の悪い事実だった。間もなくやって来た憲兵が抜刀し、こうすごんだ。「このことは絶対に口外するな。余の言うことを朕(天皇)の命令と思え」。當眞さんら21人の生存者も、軍の船で宇検から実(さね)久(く)村(現瀬戸内町)の嶺山旅館に運ばれ、厳しく管理された。

■体が許すまで

 犠牲者の遺骨は戦後数年のうちに、島を訪れた遺族が持ち帰った。大島さんは骨を探す遺族をたびたび埋葬地に案内したが、新たに見つかることはなかった。「骨の代わりにせめて浜辺の砂ぐらいは、と袋に詰め込む遺族の姿を、こちらも涙を流して見ていた」。だから体が許すまで約20年、終戦記念日には1人枝手久島へ渡り、ブッソウゲをささげる供養を続けた。

 1484人もの命が奪われた対馬丸事件。だが奄美大島では、かん口令の影響や戦後の生活に追われ、継承が十分とは言い難い。関係者が次々とこの世を去る中、大島さんはこの数年、自らの記憶を公に語ってきた。「語らなければ、忘れ去られる」

 事件を次代に伝えようと、宇検村は2016年度中にも、奄美大島では初の慰霊碑建立を検討している。場所はあのフノシ海岸。17年度に完成を目指す村誌にも、その悲劇を盛り込む予定だ。(新垣綾子)

※対馬丸撃沈事件の犠牲者を追悼する慰霊祭は22日午前11時から、那覇市若狭の「小桜の塔」で営まれる。