1877年、琉球藩が禁教した真宗信者を処罰した事件で、真宗の東本願寺が翌年に撤回を求めた交渉記録が発見された。同寺沖縄別院の長谷暢さん(42)らが、交渉役小栗憲一の『琉球日記』(文案)と『琉球出張対辨筆記秘密実録』の2点を大分県内で確認した。琉球藩庁との会談、内務省出張所との提携などを詳細に記録する。新資料発見に研究者は「琉球藩と小栗側のせめぎ合いなどが分かる」と注目する。(謝花直美)

琉球出張対辨筆記秘密実録(東本願寺沖縄別院提供)。罫線で囲んだ部分に「未だ国権を」の記述が見られる

 資料はこれまで、琉球側は東恩納文庫の「尚泰関係資料」が知られてきた。

 「世替わり」の混乱の中で1877年、琉球藩による「第3次真宗法難」が起きた。71年の廃藩置県後、鹿児島では真宗は開教。だが琉球藩は禁教を継続していた。信者だった備瀬親雲上が流刑途中で死亡、辻の女性ら信者369人余が処罰を受けた。明治政府は同事件で藩の司法権行使を問題にし介入を進めた。翌年、藩を廃止、沖縄県を設置した。

 資料は、小栗が住職を務めた大分県佐伯市の善教寺が保管していた。沖縄への布教史を調べる長谷さんらが数年前に確認した。いずれも本願寺の銘がある和紙に記録され製本。『琉球日記』は78年7月19日から8月29日の琉球滞在中の様子、『琉球出張対辨筆記秘密実録』は藩庁との会談内容の詳細を記録。二松学舎大学非常勤講師の川邉雄大さんが解読した。

 資料によると、東本願寺の海外布教担当、小栗は7月19日に那覇に到着。24日から琉球藩庁との書面交渉を開始。親里親雲上らは面談回避を続けたが、最終的に8月2日に会談した。

 東本願寺は「信教の自由に反する」などと主張。琉球藩は禁教の理由を、真言宗と禅宗、儒教があり「真宗が入ると混乱するため禁止」と説明。処罰について「門徒への刑罰は琉球の法で有効」と主張。会談は平行線だった。

 小栗の相談に、内務省出張所は「未だ国権を振起するの機会なきところ、このたび貴君の応接を好機として…」とし、事件を、廃藩を進める機会と捉えたことが記録されている。

 小栗は内務省に調停を依頼。琉球藩は司法権行使について始末書を求められ、10月には信徒の釈放、罰金返還。琉球藩庁の担当官吏が処分されて終わった。

 長谷さんは「弾圧されても信じた人々の存在。それを助けたいという思い。一方で、それが国策に乗じてしまう。さまざまな問題を含んでいる」と話す。