戦時中、子連れは名護湾が見える壕からB-29や友軍を避けて裏山に移動した。その避難所は小川がある谷間にあった。大人の高さのヤギ小屋を三つ並べたものだったが、壕と比べると天と地の差だった。そこには親戚が避難していて、兄と同年の男子がいた。2人とも少年隊には兵役年齢未満のため招集されなかった。この13歳の少年2人が3家族の食料探し、つまりフード・ハンターだった。

毅然として腰掛ける「ナグウェーカタ(名護親方)」はガジマルを真っすぐ見守っている=名護市

 彼らの留守を見計らって、今まで捕らわれていた10匹余りのワクビチ(食用ガエル)を私はわざと籠から全部逃した。2人は流弾にやられたヤギを担いで帰って来た。手柄をたて、上機嫌の2人は食用ガエルを逃した私への罰を無効にした。この英雄談は後に兄の自慢話の一つになった。

 「戦争終わったよー」。大人たちが騒いだ。母はモンペから黒い着物に着替えた。私は母のしぐさをじっと見ながら、家に帰るの? と聞くと沈黙していた。兄弟たちと同じく私も紺のスーツ、ピカピカの黒靴。避難所を立ち去る準備中の母に私はいろいろ質問した。どこへ行くの? なぜみんな上等の服なの? 頭巾はもうしなくていいの? 山道なのに上等の靴をはくの? と。13歳の兄に「うるさい」と言われるまで私は母の様子をうかがいながら返答を待っていた。4歳の私には納得がいかなかった。

 私たちも他の人たちと山道を歩いた。村落近くの広場まで来たら大型トラックがとめられていた。誰かが「アメリカー3人いるよ」と言った。1人がメガホンで話していた。2人はトラックから缶詰、箱や袋を放り投げていた。

 取りに行こうとする兄を「落ち着いて!」と母が止めた。何故か私たち家族だけが並べられた箱に座っていた。2人の兵士が歩み寄って来て母に話し掛けた。母はブロークン英語で返事をした。内容はずっと後になって分かったが、こう言ったそうだ。「マイ ハズバンド ハワイ。ヒー イズ ジェントルマン」(私の主人はハワイにいます。彼は紳士です)。私達家族はすぐ特別待遇を受けた。このエピソードは終戦直後、村人たちの間でも人気があり笑い話にもなった。

 トラックが村落へ向かう出発の合図が出た。米兵が運転席に上がる前に、兄に助手席に乗るよう手招きをした。別の兵士が私を兄の膝に乗せた。母と弟たちはトラックの後で皆と一緒だった。トラックは元名護役場の前まで来て、ガジマルの木の方角へ向いたまま停車した。運転手がチョコレートを私に渡そうとしたら「取るな、毒だよ」と兄がつぶやき、腕をつねられた。兄は「受け取るな」の一点張り。片手で私の頭をガジマルの方角へ向けた。さらに「前向け!」と言われたままトラックから降りるまでじっとしていた。

 今でもそのガジマルを見るとその時を思い出す。博物館の前に設置された「ナグウェーカタ(名護親方)」は、毅然として腰掛け、ガジマルを真っすぐ見守っている。正々堂々としたガジマルの尊厳さに私は敬意を表す。(てい子与那覇トゥーシー通信員)