1945年8月15日、沖縄の米軍は、現地区指揮官のD・ペック海兵少将の名で「布告」を発した。日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏したことを明らかにし、武器を捨てて出頭せよ、と日本軍将兵に命じる内容だった。

 しかし、天皇の「終戦の詔書」がラジオから流れた8月15日以降も、一部の部隊は敗戦の事実を受け入れず、洞窟陣地や山中に立てこもって反撃の機会をうかがった。

 本島南部に陣取っていた第24師団歩兵第32連隊の将兵が集団投降したのは8月27日のことである。

 9月2日、東京湾のミズーリ号艦上で、降伏文書への調印式が行われた。南西諸島の日本軍代表と米第10軍司令官のスチルウェル大将らが、第10軍司令部(現在の嘉手納基地内)で、降伏文書に署名したのはその5日後である。

 きょう9月7日は、沖縄戦の終結を告げる降伏調印式から70年に当たる。

 日本国内で戦われた地上戦で、沖縄戦ほど住民が犠牲になった例はない。なぜ、これほどまで住民が犠牲になったのだろうか。

 いくつもの要因が重なった結果ではあるが、突き詰めていくと、住民を守るという発想が著しく欠けていた事実が浮かび上がる。

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 ニューヨーク・タイムズのボールドウィン記者は「沖縄戦は戦争の醜さの極致」だと指摘した。米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』は、兵隊の言葉を借りて「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」だと形容した。

 引用されることの多いこの二つの言葉は、沖縄戦の特徴を簡潔に伝えている。

 まともに訓練を受けたこともない住民が防衛召集を受け、兵力不足を補うため、戦場に駆り出された。

 対戦車用の急造爆雷を背中に抱え、肉弾攻撃に行くのだと言って壕を飛び出し、それっきり帰ってこなかった男子学徒もいた(養秀同窓会編『沖縄の教育風土』)。

 米軍が「人間爆弾」と恐れた急造爆雷は助かる見込みのない特攻兵器だ。それを正規兵だけでなく学徒たちにも背負わせていたのである。

 第32軍司令部の長勇参謀長は常々、「全県民が兵隊になること」を求め、「1人10殺」の闘魂を強調していた。

 戦場の足手まといになる老幼婦女子は疎開させ、その他の住民はすべて戦力化する、というのが第32軍の考えだったが、その疎開もスムーズに進まず、多くの住民が行く当てもなく右往左往して戦闘に巻き込まれた。

 6月に入って米軍の攻撃も無差別化した。日本軍が住民の服を着用し偽装したことから兵隊と非戦闘員の見分けがつかなくなり、それが米軍の無差別攻撃を招いたケースもある。

 住民にとって米軍が「前門の虎」だったとすれば、追い詰められた日本軍は規律の緩んだ「後門の狼」だった。住民を壕から追い出して食糧を確保したり、スパイの疑いをかけて殺害するケースが各地で相次いだ。

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 収容所では慶良間諸島などから送られてきた朝鮮人軍夫が、人を人とも思わない戦場での扱いに抗議し、かつての上司をつるし上げた。

 日本が戦争に負けたのは沖縄人がスパイ行為をしたためだ、というデマも飛んだ。

 体験者が戦後長い間、公の場で体験を語らなかったのは、それが「醜さの極致」だったからではないだろうか。

 伊江島では、島に残っていた住民のうち約半数の1500人が戦死したといわれる。生き残った人々は45年5月に慶良間諸島への強制移動を命じられ、さらに53年になると米軍から土地接収の通告を受け、銃剣とブルドーザーによって土地を奪われた。

 沖縄戦の終わりは、米軍支配下の新たな苦難の始まりでもあった。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、実際の経過に即しながら随時掲載します。