【1945~1958】

米軍の強制収用で家を失った伊佐浜区民、不安げに立ち尽くす=1955年7月、宜野湾村伊佐浜

嘉手納村屋良にKB50給油機が墜落。生後2ヵ月の乳児を含む2人死亡、8人が重軽傷を負った=1962年12月

1970年12月、コザ市で米軍支配に不満を持つ住民感情が爆発、駐車中の米軍関係車両を次々に放火した。コザ騒動と呼ばれる

都市型訓練施設建設に反対して座り込む住民を排除する機動隊員=1989年10月、恩納村

2004年8月に沖国大に墜落した米海兵隊CH53大型輸送ヘリ

軍用地料の一括払いを促す「プライス勧告」に反対する住民たちが開いた「四原則貫徹住民大会」は、那覇とコザ2会場で約15万人が結集した=1956年6月25日、那覇高校

米軍の強制収用で家を失った伊佐浜区民、不安げに立ち尽くす=1955年7月、宜野湾村伊佐浜 嘉手納村屋良にKB50給油機が墜落。生後2ヵ月の乳児を含む2人死亡、8人が重軽傷を負った=1962年12月 1970年12月、コザ市で米軍支配に不満を持つ住民感情が爆発、駐車中の米軍関係車両を次々に放火した。コザ騒動と呼ばれる 都市型訓練施設建設に反対して座り込む住民を排除する機動隊員=1989年10月、恩納村 2004年8月に沖国大に墜落した米海兵隊CH53大型輸送ヘリ 軍用地料の一括払いを促す「プライス勧告」に反対する住民たちが開いた「四原則貫徹住民大会」は、那覇とコザ2会場で約15万人が結集した=1956年6月25日、那覇高校

 1945年の沖縄戦で上陸した米軍によって、各地に基地が建設された。武装米兵を動員し、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた土地の強制接収に、住民の反発は高まり、島ぐるみ闘争に発展した。

【1959~1972】

 宮森小学校を巻き込んだ米軍戦闘機の墜落事故(1959年)など事故が相次ぐ。60年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、復帰運動が高揚する。県民は「核抜き本土並み」を望んだが、基地を残したまま、72年に本土復帰する。

【1973~1994】

 本土復帰した後も、米軍絡みの事件事故は続き、住民は苦しめられた。しかし、住民の反対運動で、県道越え砲撃演習やハリアーパッド建設、都市型戦闘訓練施設建設などを中止・撤去させ、生活を守った。

【1995~2015】

 1995年の米兵暴行事件で米軍基地の整理縮小の機運が高まる。96年には米軍普天間飛行場の返還が合意されたが、それに伴う名護市辺野古への新基地建設に県民の反発は高まっている。

■誇り守る源流は島ぐるみ闘争

 米軍基地をめぐる県民の生活を守る闘いの原点は、戦後の島ぐるみ土地闘争にある。

 米軍は上陸直後から土地を占領し、1953年に土地収用令を公布。抵抗する住民を武装兵が排除し、ブルドーザーで家屋を押しつぶす「銃剣とブルドーザー」で土地を強制接収し、基地を拡張した。

 54年3月、米民政府が事実上土地を買い上げる「軍用地一括払い」の方針を示したのに対し、翌4月に琉球政府立法院は土地を守る四原則を打ち出し反対。56年のプライス勧告で四原則がほぼ否定されると、全64市町村のうち56市町村で一斉に住民大会が開催され、闘争は頂点に達した。

 争いは軍用地料の引き上げや毎年払いで終止符が打たれた。

 住民運動の歴史は今の県民大会につながる。

 95年、米兵暴行事件に抗議する大会に8万5千人が参加。2010年の米軍普天間飛行場の国外・県外移設を求める大会は9万人、12年のオスプレイ配備に反対する大会には10万1千人が集結するなど、延べ30万人超が大会に参加し、米軍基地の負担軽減を訴え続けている。