1800年ごろに首里や那覇、久米から士族が移り住んだのが起源とされる屋取(ヤードゥイ)集落の嘉手納町千原。沖縄戦後に米軍基地に全て接収された苦難の歴史を持つ。戦前を知る世代に話を聞くと、元からあった周囲の野国や野里などのムラ言葉との違いは鮮明。アクセントが一本調子になり、語尾を伸ばさぬキレに屋取ならではの名残があるという。ややもすると荒いとされる千原言葉(シンバルクトゥバ)。知名度が高いエイサーに代表される郷友会の強い団結心と負けず嫌い精神、200年余の歩みが言葉遣いに反映されてきたようだ。(中部報道部・溝井洋輔)

一本調子など千原言葉の特徴を話す砂辺松善さん(右)と知花賢宜さん(左)=嘉手納町・砂辺さん宅

千原郷友会長やエイサー保存会長を歴任し、千原の文化継承に尽力する花城康次郎さん=嘉手納町・花城さん宅

戦前の千原集落を含む旧北谷村

一本調子など千原言葉の特徴を話す砂辺松善さん(右)と知花賢宜さん(左)=嘉手納町・砂辺さん宅 千原郷友会長やエイサー保存会長を歴任し、千原の文化継承に尽力する花城康次郎さん=嘉手納町・花城さん宅 戦前の千原集落を含む旧北谷村

 「千原に限ったことではないと思うが、屋取言葉の特徴としてアクセントが一本調子で固く、ぶっきらぼうな言い方に聞こえる」

 2012年発行の「千原郷友会創立50周年記念誌」の編集部文献班長を務めた砂辺松善さん(80)はこう指摘する。同じく米軍基地に接収された野里や野国など元からあった集落の柔らかいアクセントとは明らかに異なると実感する。70代以上の世代ではその違いはすぐに分かるというのだ。

 例えば童歌「堂小屋敷(どぅーぐゎーやしち)ぬタンメーさい」の歌い方で違いが現れる。時勢に乗り遅れた久米村人がカエル(アタビー)やフナ(ターイユ)を売って生計を立てる人を皮肉る内容。「タンメー(おじいさん)さい」や「待っちょーれー(待ってください)」の言い方は、町内に住む野国や野里の人が抑揚をつけるのに対し、千原の人は一本調子になるという。

 同じ士族の中でも位によって言葉の違いはあったようだ。砂辺さんによると、千原のルーツは下級士族が多かったが、中には位の高い士族の出身者もいて、砂辺さんの曽祖母もその一人だった。

 砂辺さんの母は幼いころ、曽祖母から「カーンチャーニ」という言葉を掛けられた。こっちに来なさいという意味で、これは位の高い士族の言葉の一つとして母が砂辺さんに教えた。

 一方で、言葉の荒さの背景に千原特有の「負けず魂」を見いだすのは知花賢宜さん(68)。FMニライでしまくとぅばを使うラジオ番組を持つ知花さんが、こう読み解く鍵は苦労を重ねた時代背景だ。

 移住初期は既にあったムラの人に認められようと農作業などで相当な苦労を重ねた。「首里言葉は穏やかとされるが、言葉は環境で変わる。負けたらいかんという精神の表れが世代を重ねるうちに荒さにつながったのでは」と推測する。

 人口は多くないが、戦後の字対抗陸上大会では好成績を重ねた。故郷を追われる中での負けん気は郷友会に脈々と流れるという。

 全国的な知名度を誇る千原エイサーにも、その影響が出ているようだ。高校卒業後すぐに千原エイサー復活に関わり中心的な役割を担い続けた花城康次郎さん(86)は、保存会長や郷友会長を歴任し、伝統の型を守ることにこだわった。

 「久高節」や「仲順節」など7曲から成り立つ千原エイサーの曲で千原特有の言葉はみられない。ただ士族としての誇りが男だけの演舞、随所に空手の型を入れる勇壮な所作につながっている可能性を指摘する。

 花城さんが千原の特徴と指摘するのは語尾のキレの良さ。周囲の旧集落の人の言葉が「ぬーがひゃー」「あらんろー」などと語尾が伸びるのとは対照的。しかし、そんな違いも時代とともになくなりつつある。

 花城さんは文化と言葉の継承への思いが強い。「若い人には機会があったら勉強してほしい。そして、お年寄りと話すときに使ってほしい。そうすればお年寄りも親しみを覚えて会話も弾むだろう」