1908年に「笠戸丸」でブラジルに渡った移民、昭和初期の沖縄での映画撮影や葬儀の様子などを収めた写真約50点が、沖縄県豊見城市上田の元市議・宜保直志さん(85)宅で確認された。当時の沖縄の文化や生活を映し出し、写真史研究者は「沖縄の歴史や世相が個人史と密接につながっていることを示す写真群」と指摘する。(南部報道部・又吉健次)

波上宮前でフォードと写る宜保弘助さん(左)=1934年ごろ(豊見城市教委提供)

移民先のブラジルで写真に納まる宜保弘齊さん(右から2人目)。現地での様子を沖縄の家族に伝えるものだった可能性がある=1908~11年ごろ(豊見城市教委提供)

1937年公開の映画「オヤケアカハチ」の撮影風景。現在の糸満市とみられる(豊見城市教委提供)

100年以上前に撮影された家族の写真を前に記憶をたどる宜保直志さん。移民、戦前の沖縄での映画撮影などがアルバムに収められている=豊見城市上田

波上宮前でフォードと写る宜保弘助さん(左)=1934年ごろ(豊見城市教委提供) 移民先のブラジルで写真に納まる宜保弘齊さん(右から2人目)。現地での様子を沖縄の家族に伝えるものだった可能性がある=1908~11年ごろ(豊見城市教委提供) 1937年公開の映画「オヤケアカハチ」の撮影風景。現在の糸満市とみられる(豊見城市教委提供) 100年以上前に撮影された家族の写真を前に記憶をたどる宜保直志さん。移民、戦前の沖縄での映画撮影などがアルバムに収められている=豊見城市上田

 最も古いとみられる写真は08~11年ごろ、直志さんの祖父・弘齊(こうせい)さん(享年69)が一時移民したブラジルで撮られた一枚。当時、移民先での様子を撮り家族へ送る習慣があった。この写真がそうだったかは不明だが、現地での馬を使った労働の風景が垣間見える。

 直志さんの父・弘助さん=44年没=が10年ごろ、写真館で家族と写した一枚も残る。ブラジルの弘齊さんに送るために撮った可能性もある。移民は県民が写真に触れるきっかけにもなった。

 弘助さんは34年ごろ、那覇の波上宮で米国車フォードの前で記念撮影している。この時期までに運転免許を取得したとみられ、免許保持者は「島尻郡で2人」と生前話すほど貴重な存在だった。高価なカメラも所有しており、豊見城村(当時)に3人だったという助産師の妻・故常子さんとの収入で購入したようだ。

 沖縄が舞台で37年公開の映画「オヤケアカハチ」の撮影風景などを収めた10枚ほどの写真も貴重だ。タクシー会社勤務の弘助さんがロケ隊と現場へ向かい、撮影風景を写したとみられる。県民は沖縄ロケを喜んだが、原始的な衣装を問題視する意見も上がり、沖縄の描かれ方が議論になった。

 弘助さんが39年、大阪に移住したことから写真は沖縄戦の戦禍を免れた。44年に弘助さんが仕事中のけがで死去。家族は戦後、沖縄へと戻った。

 弘助さんの長女の大城恵美子さん(87)=豊見城市=と直志さんは、明治~昭和初期の写真に「貴重だと思うし関係者にも見てもらいたい」と話す。写真は戦後分も含めると500点以上ある。

 写真史研究所の仲嶺絵里奈研究員(38)は「一般家庭に残された写真群が、どのような価値を持つのかを語ることができる好例。写真がどのように家庭へ普及していったのかが読み取れる」と語る。

 写真は、豊見城市教育委員会のフィルム資料収集事業で確認された。