終戦で山を下りるのになぜ、家族は上等な着物や光沢のある靴を履いていたのか。その時私は4歳で理由は教えられなくても、その状況が普通ではないことには気付いていた。終戦後、そのなぜ? が頭をかすめたことが何度もあった。それを母から教えてもらいたかった。

自宅の裏庭で初夏に葉っぱを出し、その根強い生命力を発揮しているムーチーガーサ

 25年前に他界した母。今ごろになって地球の裏側からなぜと問い掛ける。戦後70年の節目で今まで思い詰めていたことが、まるでクモが糸を吐くように止まらないカタルシス現象になったせいだろうか。

 壕で食べ物探しに母のかばんで見つけたのは、芋ではなく手榴弾(しゅりゅうだん)だった。他の家族のように、防衛隊に行く前に父から母はそれを渡されたことが徐々に分かった。母はなぜそれを持たされていたのか。具体的な答えがほしかった。私の頭には「多分」しかない。それに関して母に一度も質問したことはなかった。わが家でも戦話はタブーだと容認されていた。私はそのまま半世紀余り前に渡米した。

 終戦と直後の状況をこれを書くまである人物に話した。それは1950年代半ば、名護中学の修学旅行で戦跡まわりをした時、引率の1人が故中村文子先生(元1フィート運動事務局長)だった。今の黎明の塔と健児の塔辺りで先生と2人だけになった。終戦後、名護の村落の人たちと遺骨や遺品探しにはだしで歩いていた場所にさしかかった時、先生に話した。なぜ家族が上等服や靴を履いていたのか。母のかばんの手榴弾の件も含めて話した。

 先生は皇民化・軍国教育など戦前の社会風潮を説明した。答えを決して教えなかった。教え子の思考力を刺激し、正しい自己判断へ導くのが文先生の教育方針だったのだろう。先生が私にどういうふうに洞察してほしいのか、帰りのバスで考えさせられた。

 負け戦で山を下りる際、家族で晴れ着で敵陣に入っていく。最後には集団自決でも、と覚悟を決めていたのであろう、という推定になった。幸いにも手榴弾を使う必要性はなかった。最初にみた敵陣アメリカーたちには恐怖感は抱かなかったのである。逆にうそも方便で機転を利かせた母に感謝している。

 皮肉にも父の戦友で村の男がハワイへ捕虜としてとらわれ終戦3年後に帰って来た。父の仏壇前に正座しうつむいていた。彼の話では終戦6月23日ごろ、キビ畑で父は腹部に弾が貫通し、はうように壕までたどり着いた。医療不足でそのまま野垂れ死に、あるいは降伏するよりはましだと戦友たちと自決したらしい。父は6月27日に39歳で戦死した。牛島満大将の自決後、天皇陛下万歳で多くの兵隊たちが自決したことは当然な時勢なのだと教えられた。

 「ぬちどぅ宝」。母はそう思ったのだろう、と文先生は私の考えをまとめてくれた。先生と母は当時の沖縄の社会情勢を話しお互いの心境をよく把握していた様子だった。

 私も3人の母親4人の祖母。彼らに何でも自由に尋ねられたい。オープンに話し掛けてほしい。そんな人物になるにはまず自分がもっと努力しなければならない。(てい子与那覇トゥーシー通信員)