過去の戦争や植民地支配をめぐる「歴史認識問題」は国民感情を刺激し、非難・反発の応酬という「負の連鎖」を招きやすい。対立の火種を広げることがないよう、日中両国に冷静な対応を求めたい。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中国が申請していた旧日本軍による「南京大虐殺」に関する資料を世界記憶遺産に登録した。

 ユネスコの記憶遺産は、世界的な重要性をもつ歴史的記録物を記憶遺産として登録・保全し、一般に広く公開することを目的にしている。

 これまでに登録された記録物の中には、民主化を求めて民衆が蜂起した韓国・光州事件の運動の記録や、フィリピンのマルコス独裁政権に対抗し市民が決起したピープルパワー革命の際のラジオ放送など、政治的要素が強いものもある。その対象は幅広い。

 過去の登録ケースを考えれば、「南京大虐殺」に関する資料が記憶遺産に登録されることに唐突な印象はない。

 「前事不忘 後事之師」という言葉があるように、「負の歴史」を将来への戒めとして記憶することが、和解をもたらす前提となる。1937年12月、旧日本軍が南京を総攻撃した際、非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは日本政府も認めている。

 問題は、犠牲者数について、日中間で見解の隔たりが大きいことだ。

 記憶遺産に登録された関係文書の中には、犠牲者数を30万人以上と記した南京軍事法廷の記録などが含まれているが、日本政府は中国の見解を認めていない。

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 この事件が国民に知られるようになったのは極東国際軍事裁判(東京裁判)によってである。犠牲者数については、作戦部隊の公式記録が戦争直後に焼却されたこともあって、これまで激しい論争が続いてきた。

 今となっては、残った資料などを参考にして概数を推定する以外に方法がないのが実情だ。

 歴史家の笠原十九司(とくし)氏によると、日本国内では研究者によって「十数万から20万人」「約4万人」「2万人余り」などの数字が使われている(東郷和彦・波多野澄雄編「歴史問題ハンドブック」)。現在、「30万人虐殺説」を主張する歴史研究者はいないという。

 日本政府が記憶遺産登録を強く批判するのは、登録によって「30万人以上」という数字が国際社会で一人歩きし、歴史カードとして中国に政治利用される恐れがあるからだ。

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 歴史家に支持されていない数字が国際社会で固定してしまうと、日中の研究者による今後の共同研究の妨げになる可能性があるのも確かだ。

 一方、中国が登録申請に踏み切った背景に、安倍晋三首相の靖国神社参拝や、「事件はなかったのでは」と全否定する政治家の発言など、日本の右傾化への強い警戒心があることも否定できない。

 自民党からはユネスコへの分担金凍結の声も上がっているようだが逆効果である。日中対立を深めるのではなく、見解の隔たりを埋めていく方向で取り組んでもらいたい。