1952年沖縄タイムスの紙面で、旧具志川村の田場初等学校の鐘をたたき、時を告げる少女として紹介された大田節子さん(旧姓呉屋)(76)=名護市=と、恩師横田裕之さん(87)=うるま市=が63年ぶりに再会した。10月26日に沖縄タイムス中部支社で再会した2人は、学校時代に一気にタイムスリップ。「先生、お元気で良かった」「あの節子さんか」と喜んだ。鐘の美談が多くの人の心に刻まれていたことが再会を可能にした。大田さんは「当たり前のことを続けることが大事と学んだ」と懐かしんだ。(謝花直美)

(右から)鐘をたたいた少女大田節子さん(旧姓呉屋)さんと63年ぶりに再会した恩師の横田裕之さん、取り持った新崎盛文さん=沖縄タイムス中部支社

大田節子さんの記事が掲載された沖縄タイムスの1952年2月6日社会面

(右から)鐘をたたいた少女大田節子さん(旧姓呉屋)さんと63年ぶりに再会した恩師の横田裕之さん、取り持った新崎盛文さん=沖縄タイムス中部支社 大田節子さんの記事が掲載された沖縄タイムスの1952年2月6日社会面

 記事は52年2月6日の本紙社会面に掲載され、反響を呼んだ。取材した先輩の話を心に留めていた本社OB新崎盛文さん(72)が2カ月前に偶然、横田さんが記事を探していると知った。記事を調べて訪ね歩き、現在は名護に住む大田さんを探しあてた。

 時を告げる鐘は児童のアイデアだった。田場初等学校は、文教付属校を前身とし、自律的な校風だったことが理由という。

 当時家庭には時計がなく1学級に5、6人も遅刻が出た。青年教師だった横田さんは「子どもたちに解決策を考えてもらった」。児童会は予鈴用酸素ボンベの鐘を午前7時にたたくことを提案。会長で6年生の大田さんが引き受けた。

 毎朝6時に起床、学校隣の校長宅で時間を確認すると金属棒で鐘をたたいた。校区で遠い場所は約2キロの距離。鐘の音が届くように一生懸命にたたいた。

 母親は朝食のジューシーに当時手に入りにくいバターのかけらを落としてくれた。「クンチ(力)を付けようと工夫してくれた」。大田さんは懐かしむ。

 「校訓は素直な子、働く子。今でも覚えているなんて珍しいでしょ。自分で考えることを大切にした田場校ならでは」。大田さんは、振り返る。横田さんは「子どもたちを愛する教育を心掛けた」。2人は現在も田場初等学校の美風を心に留める。