昨年、「さきがけ文学賞」を受賞した本書には、沖縄戦の種々の体験を語る短編小説6篇が収録されている。単なる証言集ではない。本書に登場する証言者は1人を除いて、みな死者である。作者は、それら死者たちの声を掘り起こし、想像し、種々の手法で描き出している。その都度文体も違えている。ここにこの作品の斬新さがある。

秋田魁新報社・864円/おおしろ・さだとし 1949年大宜味村生まれ。大学非常勤講師。詩人・作家。「椎の川」「島影」「樹響」など著書多数

 「『肝苦りさ』-闘いの原点はここにしかない」と述べたのは辺見庸であるが、本書のタイトル「一九四五年 チムグリサ沖縄」のチムグリサとは、「相手の苦難を見て、身がちぎれるほどに心が痛む」という意味である。身体的痛みをもって相手の不幸を受け止めることである。単に同情的・傍観者的な標準語の「かわいそうに思う」とはそこが違う。沖縄戦の体験談を聞いて「退屈」だとする本土教師がいたが、どんな悲惨な体験も聞く側に「チムグリサ」の心がなければ、体験は伝わらない。作者はそのチムグリサの話を伝えるために言葉を紡ぐ。沖縄戦では20万余が死没した。ということは、20万余の体験があるということだ。記録されたものもあるが、多くは今なお、埋もれたままである。まして、死者たちの声は-。

 登場する証言者は、樹上での逃避生活の果てに自決する若い兵隊であり、隔離され、差別されて死んでいったハンセン病の患者である。第六話「道」の語り手は、臨時の看護婦として駆り出されたあげく、泣き叫びながら米兵らに凌辱(りょうじょく)される女子学徒たちである。1人は首を括(くく)って自害し、「私」は「米兵の子供を妊娠する不安に苛まれる」。終戦になっても、「私と同じようなことが再び起こらないとは限らない」という少女の怯(おび)えは、73年後の今も、現実の事件となって沖縄を脅かし続けている。

 チビチリガマを荒らした犯人が沖縄の少年たちであったと言う。事件の政治性への疑念が払拭(ふっしょく)されたわけではないが、少年たちの心の荒みが心に刺さる。死者たちは2度、いや、何度も殺された。少年たちが死者の眠るガマを荒らす前に、この島の死者たちは、戦争のための軍事基地建設を進める日米両政府によって今も荒らされ、凌辱され続けている。本書は、読む読者も試されている。(平敷武蕉・文芸評論家)