アフターファイブはしまくとぅば-。事務関連品販売の丸仁(那覇市)社長で、WUB(ワールドワイド・ウチナーンチュ・ビジネス・アソシエーション)沖縄会長の上江洲仁吉さん(67)は、仕事が終わると会話のほとんどはしまくとぅばで話す。しまくとぅばを使うことでリラックスでき、周囲の雰囲気も和むからだ。「しまくとぅばは命薬(ぬちぐすい)。体の中から幸せを感じる」と、とびっきりの笑顔を見せる。(政経部・下里潤)

大綱の前で、まつりの成功と安全を祈願する上江洲仁吉さん(右)=2017年10月(上江洲さん提供)

「しまくとぅばを使うと幸せな気分になる」と話す上江洲仁吉さん=那覇市・丸仁

大綱の前で、まつりの成功と安全を祈願する上江洲仁吉さん(右)=2017年10月(上江洲さん提供) 「しまくとぅばを使うと幸せな気分になる」と話す上江洲仁吉さん=那覇市・丸仁

 ビジネスの場では「初対面の人にいきなり話すとびっくりするから」と主に共通語。親しくなれば、取引の場でも、しまくとぅばで話すこともあるが、基本的にはオフの場などで使っている。

 所属する県中小企業家同友会など経済団体の懇親会やパーティーのあいさつでもしまくとぅばを使う。

 「ぐすーよー、ちゅううがなびら。いちゅなさんなか、めんそーち、いっぺーにふぇーでーびる(皆さん、こんにちは。忙しい中、お集まりいただきありがとうございます)」

 共通語は一切使わない。参加者に顔と名前を覚えてもらいやすいなどのメリットもある。根底には、しまくとぅばが醸し出す、ゆったりとした雰囲気を味わってほしいとの思いがあるからだ。

 時折、「本土の人や若いウチナーンチュは理解できないじゃないか」と苦言を呈されることもある。それでもしまくとぅばにこだわるには理由がある。

 1950年、那覇市壺屋で生まれた。父は那覇軍港に接収された垣花町出身。当時、共通語を話すのは教員や公務員など裕福な家庭で育った子が多く、言葉は経済格差の象徴だったという。

 高校3年生の時、大学受験に向け、東京の宿泊施設を予約しようと電話をした。返ってきた答えは「ジャスト・モーメント・プリーズ」。電話先の相手に外国人と勘違いされた。ある程度、共通語は話せると自負していただけに、ショックだった。大学進学後、沖縄の友人と会うのは極力避け、共通語を身に付けようとした。それでも思うように話せず、学生生活は、緊張の連続だった。

 卒業後、沖縄に戻った。慣れ親しんだしまくとぅばが耳に入ると、ほっとした。体の中から幸せがあふれてきた。本来の自分を取り戻せたような気分になった。

 「しかまち、かんぱち、さかえまち」「にふぇーでーびる、ボディービル」。模合で沖縄の人にしか分からない冗談を飛ばすと、腹の底から笑えた。その場の雰囲気が一気に和み、一体感も生まれた。しまくとぅばが、痛みの記憶を緩和してくれると感じた。

 「しまくとぅばは命薬。話すことで癒やし効果がある」。そう実感した。

 約20年前、ブラジルの親戚訪問で、その思いをさらに強くした。話されるのは、しまくとぅばとポルトガル語のみ。共通語としての日本語は一切なく「古き良きパーフェクトなしまくとぅばが学べた」という。

 海外へ移民した県系人の“共通語”こそ、しまくとぅばだと感じた。「WUBの大会でも英語やスペイン語だと通訳がいるが、しまくとぅばだと必要ない。県系人が大切にする言葉に感銘を受けた」と話す。

 それ以来、「アフターファイブはしまくとぅば」を宣言。浦添高校の同窓会長を務め、主に同世代との会話はしまくとぅばを使う。那覇大綱挽保存会相談役の横顔もあり、まつりの安全祈願もしまくとぅばだ。

 「一度、言葉が途切れると復活まで何百年もかかる。話し続けることが大切」と話す。「沖縄発祥の空手も、しまくとぅばで指導するのはどうか。その方が正しい空手を伝えられるのでは」と力を込めた。