【宜野湾】米軍キャンプ瑞慶覧(西普天間住宅地区)返還跡地で、1910年代前後に沖縄県内各地で整備され、現在の県道の前身に当たる「郡道」の「普天間旧道跡」が発掘されたことが11日までに分かった。戦前は、普天間宮から伊佐方面に続く東西をつなぐ主要道路の一つとして利用されていた。

キャンプ瑞慶覧の返還跡地から発掘された郡道「普天間旧道跡」=2017年10月、宜野湾市・キャンプ瑞慶覧返還跡地(恩河さん提供)

普天間旧道跡

キャンプ瑞慶覧の返還跡地から発掘された郡道「普天間旧道跡」=2017年10月、宜野湾市・キャンプ瑞慶覧返還跡地(恩河さん提供) 普天間旧道跡

 専門家は「郡道はほとんど残ってない貴重な文化財。当時の生活や歴史を知る上でも重要」と保存を求めている。

 同地区の2017年度の文化財調査で見つかった。「普天間旧道跡」は道幅約4・5メートル、残存距離は約180メートル。道の両端には石灰岩の切石を縁石として配置している。道路の中央部は盛り上がっており、両端に排水される設計になっている。

 「郡道」とは、現在の広域圏のような各村などでつくる「郡組合」が整備した道路。郡道に詳しい沖縄国際大学非常勤講師の恩河尚さん(64)によると、廃藩置県後、本土では地方税規則や郡区町村編成などを定める3新法が適用されたが、沖縄では明治政府による「旧慣温存」の影響で適用が遅れ、郡組合が主体となって道路整備した背景があるという。

 「普天間旧道跡」は、「中頭郡浦添外十ケ村組合」(西原、浦添、北谷、中城、宜野湾、越来、美里、具志川、与那城、勝連)が整備したとみられ、宜野湾市史には、1915年に道路改修工事の入札公告が出されたことが記されている。

 「普天間旧道跡」沿いにはトロッコレールを敷設するための枕木痕や犬くぎも確認されており、恩河さんは「県道(現在の国道58号)への連結やサトウキビを大山製糖場に運搬するためだったのだろう」とみる。「郡道は生活道路として使われていた。その詳細や状態を明らかにする遺構が一部とはいえ完全に残っており、県内でもまれな事例」と評価。道路の歴史や変遷を知る上でも貴重といい「郡道をどう活用して保存していくかが重要になる」と話している。

 宜野湾市は「普天間旧道跡」が「喜友名山川原第九遺跡」と併せ、良い保存状態で発見されたため「緑地の湧水源と合わせて、市民が地域の歴史を身近に感じ、誇りと愛着を感じるための貴重な財産として、跡地利用計画に支障のないよう保存等の検討を調整したい」としている。(中部報道部・赤嶺由紀子)